空島出版

いとでんわ 第1期(2011年10月-2011年11月)

果たして、事実がより重要で、人の作った事実でないことはそれと比べて重要でないと断言できるでしょうか。一概に事実が優れており、事実でないことは劣っていると。
答えは否です。
もちろん、事実はとても大切です。しかし、そういった非事実が事実と同じく心や実生活に力を及ぼすとすれば、それに価値がないと言えるはずがありません。
非事実には薄っぺらな嘘や実現不可能な夢物語などがあるのみではありません。そこには事実と同様、あるいはそれ以上に確かに思えるものさえもありうるのです。例えば、過去の事実には美化や劣化といった変形変性が伴うし、現在でさえ、その状況におけるありのままの全てを把握するために自分達の心身は余りにも小さ過ぎ、偏り過ぎている。となれば、別のかたちで限定され、偏りのある非事実が時に事実以上の大きな力を及ぼす、つまり、より鮮烈な《現実》となることは真であると言えるでしょう。

自分は2007年に空島出版というものを立ちあげました。空島出版に掲載する文章は事実か非事実かが不明であり、そこにそれらの両方が境なく混在している場合もあります。しかし、想像力を働かせて読むことを通して、極めて無限に近い多彩多様な世界の一部、ひいては世界そのものが再発見、新発見できる。そこで取り上げるものは動物、植物、菌類、鉱物、気象、天体、文明など様々ですが、どれもが上に記した意味での《現実》であることには違いがない。繰り返すようですが、ある物事が重要であるか否かは事実であるかそうでないかではなく、それがいかに豊かで濃い現実になるかというところにあると思われるのです。

それでは、最後にその空島出版からの二篇を掲載します。おたのしみ頂けると幸いです。

「マルマファファボとは」

マルマファファボは体長8~10cm、山吹色の胸部以外は全身が斑のある薄赤色の羽毛で覆われたハチドリの一種で、別名ヒバナドリとも呼ばれている。
生息地での春から夏の雨季、3月から7月の繁殖期に入ると、彼らの雄鳥はその名の通りに火花が弾ける音さながらの鳴き声を出し、雌鳥に求愛をおこなう。
そのような生態を備えるようになったのは、彼らの生息地における最大の天敵である肉食種のムネジロコウモリが炎を極端に嫌うため、そして聴覚に特化しているためだという説が最も有力である。

マルマファファボ(MUR MA FAFAVO)とは、原地民の言葉で“炎神の御子”という意味を持つ。
加えて記すと、ファファボは人が自然を軽んずる行動をとったとき、その人の心臓を焼き、絶命させるという厳格な神として畏れ敬われており、その分身であるとされているマルマファファボも原地民の厚い信仰の対象になっているという。

(空島出版刊『動物のはなし』より抜粋)

「空気を噛むことについて」

標高2000mを超えるアンデスのある地域では、褐色の肌をした老人が草を食むリャマと同じように口をもぐもぐさせている様子を頻繁に見かける。彼らは食べ物を口に含んでいるわけではなく、深呼吸で吸い込んだ空気を噛んでいるのだという。何でも、噛むごとに仄かな甘みが加わるのだそうだ。また、空気や風の味は季節や天候、時間帯によって顕著に変化するのだという。話をしてくれたある男性によると、この地域には珍しい大雨が降った翌朝の、そよ風を含んだ空気がまろやかで清清しく、深みがあって最も美味いのだそうだ。しかも、季節が春なら尚すばらしいという。

私も彼らを真似、その地で何度も空気を噛んで味わってみた。初めはその時々で違いがあるのか理解し難かったが、徐々に違いを解するようになった。乾燥した真夏の昼間の煙たい苦み。晩秋の深夜の透きとおった、どこか色気のある味。冬の夕暮れ時の爽やかな悲哀の漂う味。そして、春の大雨が降った翌朝の馥郁(ふくいく)たる甘み。

あの地を離れてから七年が経った。今でも、ここ東京で空気を噛んでみることがある。この場所で空気は味わえないな、と心のなかで苦笑することもあるが、深夜や早朝、長雨の晴れ間などに食べると、思いがけず空気が美味しいことも多々ある。場所は緑の比較的多い公園や寺社の境内、住宅街の路地などを選ぶといい。それに、空気の美味さは天気や時刻のみならず、心の状態とも大いに関係しているらしい。心身の穏やかさを深めたいとき、もしくはそれを取り戻したいときは、深呼吸をしてゆっくり空気を味わうことをお薦めする。

(空島出版『文明のはなし』より抜粋)