言葉、音、実体という幻

いとでんわ 第1期(2011年10月-2011年11月)

即興というのは難しい。
でもその前に、そもそも作曲ができない。
「自由に感じたままを弾いて」とか「曲を創ったら?」と言われると、一体何を弾いたら良いのか、どうしたら良いのか分からなくて「そんな能力、ありませんから」と言っていた。
でももしかしたらそれは才能とか感性の問題ではなくて、実体にとらわれ過ぎているというだけのことなのかもしれない、と近頃思っている。

名古屋に住む友人と、言葉というものが目の前の人にとってどういう役割を果たすものなのだろう、という話をした。
誰かと話をしていて「わかる」「その通り」と思う(あるいは言う)ことがある。
その時、人は相手の言葉の何をどう理解しているのだろうということで、私はこれまでそのことをそう深く考えたことはなかったのだけれど、良く考えてみると確かに言葉ほど実体のないものはないのだし、にも関わらず、その言葉に日々惑わされているということは随分と奇妙なことに思える。
精神科医である彼は、患者さんと向き合う時、決して彼らのことを理解しているわけではなく(というのはもちろん理解する必要がないと言っているのではなくて、他人を理解するという行為自体が一種のエゴイズムであるという考えを踏まえている)、ただコンテクストの中の引き出しから言葉を選んでいるだけなのに、「その通りです」という反応が返ってくることが興味深いことだと言った。
その後で、最も、医者と患者という立場上言葉でやりとりをする他に特殊な方法を用いない限り言葉の持つ意味は疑い様がないし、人間の社会というのが言葉をやりとりする上で成り立っているからこそ複雑で、病気も存在するということになるんですけれどね、とつけ加えた(彼はいつも自分の意見の後に逆説を唱えることを忘れない)。
もしかしたら人間が日常生活の中で感じ得る事柄というのは動物や昆虫が知覚しているそれと違わずシンプルなもので、言葉というのはそれほど重要なものではないのかもしれない、とも。
そうかもしれない、と思う。
たとえば誰かと一緒に居て居心地が悪いとき、口に出さなくてもお互いにそう感じているということが分かる(ごく稀にそれが成立しないことももちろんあるけれど)。
それはたぶん皮膚感覚のようなもので、光の速さほどあっという間に認識してしまう類のことだから、言葉を用いたとしてもおそらく追いつけない。
感じていることと言葉が相まっている場合でも、だからそれは直接には影響していないことかもしれないのだ。
私には、それが音楽をすることとそう変わらない事であるように思える。

即興や作曲をするということに抵抗を覚えるのは、私が言葉(すなわち音)に頼りすぎているからなのかもしれない。
音が私にとっての言葉なのだとすれば、こうして文章を書く時に言葉を吟味するように、音を吟味する。
注意深く、慎重に。
でもそれはどこからくるものなのだろうかと考えたときに、決して五感をさらっているわけではないということに思い当たる。
それどころか、たぶん楽曲に通っている精神性のようなものもある意味素通りしてしまったところでそれをしているような気さえする。
曲を理解したい、というよりも、音がきちんと機能していることを確かめたい、ということに近いような気がする。
楽譜というものが世の中に出てくる時点ですでに完結しているものだし、それをさらに数え切れないほどの演奏家が吟味し尽くしているのだから、私がそんなことをする必要はないのに。
たぶん、それをしていると安心なのだ。
音符は五線に書かれていて、現に目の前にあるから。
いつの頃からか、実体のあるものしか見なくなったのだと思う。
言葉を使う時、書いたり読んだりすることは除いて、話すにしろ聞くにしろ、それは発した瞬間から消えてなくなってしまう。
音の場合もそれと同じで、弾く側にとってはたとえ楽譜があったとしても、弾くにしろ聴くにしろ、発した瞬間にやはり宙に溶けてしまう。
その時に起こる反応ができれば好意的なものであって欲しいと願うけれど、どちらの場合もどんなに吟味したそれであっても、その場に生まれる感覚やイメージに馴染むか馴染まないかという域を出ない程度のことなのかもしれない。
頭で理解するよりずっと速く、それこそ光の速度で細胞に届いてしまう。
ああ、そうなのか、と思う。
実体なんて、どうかすると幻みたいなものなのだ。
頭より身体の方がずっとずっと賢い。
ぼんやりしていた輪郭の焦点がぴたりと合うみたいに、それは清々しい発見だった。