9月のフランス、枯れたひまわり畑

いとでんわ 第1期(2011年10月-2011年11月)

「シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々」を読んだ。
第二次世界大戦前、パリのセーヌ左岸にあるオデオン通りでシルヴィア・ビーチというパリの文学シーンを代表するアメリカ人女性が営む伝説的な書店があることは、ヘミングウェイの「移動祝祭日」という本の中で語られている。
本を売っているだけでなく図書館のように貸し出しもしているというその書店は、1920年代から1930年代にかけて、ヘミングウェイやフィッツジェラルドといった名だたる文豪やアーティストの集った交流の場で、当時一冊の本を買うお金にも困っていたヘミングウェイは、登録料の持ち合わせがないにも関わらず貸しカードを作ってくれ、登録料はお金がある時に払ってくれればいいからと無料で読みたい本を持ち出すことを了承してくれた親切なオーナー、シルヴィアへの感謝の気持ちをまるまる一章分費やして綴っている。
1941年に閉店してしまったはずのその書店を、それから10年後、シルヴィア・ビーチを敬愛するアメリカ人、ジョージ・ホイットマンが新たにノートルダム大聖堂のすぐそばのビュシュリ通りに開き、今もなお、半世紀にわたって営業していると知っていたら間違いなく見に行っていたのに、と思う。
文学を愛する気持ちや貧困に耐えチャンスを待ち続けているアーティストへの支援という精神を受け継ぎ、「見知らぬ人に冷たくするな、変装した天使かもしれないから」をモットーとした2代目シェイクスピア・アンド・カンパニー書店は、元祖のそれを遥かに凌ぐ風変わりな書店となった。
書棚の間にベッドが置かれ、日曜日には朗読会と称したお茶会が開かれ、そこに流れ着いたいわゆるボヘミアンアーティストたちが無料で泊ったり食事をふるまわれたりしているという。
なんていう街、というのが読み終わった感想で、一度しか行ったことがないフランスで過ごした一週間、まったく同じ気持ちを抱いたことも思い出した。
なんていう国。

フランスという国に興味を持ったのがいつの頃だったか、気がつくとフランス映画ばかりを観るようになり、フランス語の響きがなにより美しく感じられ、フランクやドビュッシー、プーランクやラヴェルやサティに感じられる独特な音の調和に魅了され、行ったこともないパリの街をどういうわけか知っている、とさえ思っていた。
何年も憧れつつなかなか行く機会がなかったので、シャルル・ド・ゴール空港に降り立ったときの感慨は言葉にできないものがあった(あの国は空港にさえ、その硬質さと透明さを湛えている)。
ニース・モナコ・カンヌから始まってアヴィニヨンに移動し、ロワール地方の古城を見学してからノルマンディー地方に移動、モンサンミッシェルを見学しサン・マロに一泊した後に、パリを観光するというツアーだった。
どこも素晴らしく美しく、9月に入ったばかりだというのに猛暑のような暑さで(持っていったトレンチコートはトランクの中から一度も出されることはなかった)、特に南仏は、その生命力を隠そうともしない様子で狂い咲いている色鮮やかな花々で溢れかえっていた。
ツアーに参加していた50代くらいの2人組みの女性は友人同士だと言い、正反対の性質の持ち主で、見ているとまるで漫才のようなので、私はなんとなくいつも彼女らに引き寄せられてしまうのだった。
その2人組みの背の高い女性は声も高く、でも控えめに、小鳥のさえずりのように話す少女のように可愛らしい人で、コート・ダ・ジュールの紺碧の海を見下ろしながらエズ村を歩いていた時に、「あれはなんの実かしら」と言われて顔を上げると、実の重さで支えきれなくなった枝が頭のすぐ上にあった。
柘榴のようにも見えたのだけれど明らかに違うその実がなにか分からず、ふたりであれこれ思案した挙句、結局何の木なのかも分からなかった。
「あたし、果物が大好きなの」
彼女はそう言って、うふふ、と小さく微笑んだ。

同じ南仏でも、アヴィニヨンはまた違った趣のある街だった。
法王庁の壮大さ、城塞といっていい厳かな外観と街の調和が見事で、私にとってこの城壁に囲まれた空気の静謐さはドビュッシーの旋律そのものだった(でも彼は、アヴィニヨンにはなんの縁もない)。
翌朝まだ暗い内からホテルを出た私たち一行は、濃紺からくっきりとしたオレンジ色のグラデーションを描く朝焼けに見送られてTGVに乗り込んだ。
ロワール地方ではふたつの古城を見学し、けれど私はお城にはそれほどの興味が持てず(写真だけはたくさん撮ったのだけれど)、見渡す限りの緑に洗われた新鮮な空気をたっぷりと身体に取り込み、横付けされた立派な馬車と(あの馬の素晴らしい毛並み!まるでビロードみたいだった)、結婚式を挙げたばかりの新郎新婦が散歩している庭園ばかりを見ていた。
その後は長いバスの旅。
モンサンミッシェルのあのポストカードで見る立ち姿の記念写真のためにわざわざバスが停車したので、お決まりに従い写真を撮り、修道院だとは信じられないほどの活気に満ちた参道、グランド・リューを歩き、修道院内を見学した。
最上階から見渡すサン・マロ湾の眺めはちょうど干潮で、淡い水彩画のそれのように跡を残していた。
良く見ると石の一枚一枚にアルファベットが刻まれていて、それらを手がけた職人が自分のイニシアルを彫ったものだという。
歴史に名前を刻む、ということの真意がこういうことであるかのような気がしたのだった。
その日はドーヴィルのホテルに泊った。
あの「男と女」の舞台となった海岸のあるドーヴィル!
砂浜まで車を走らせ─ヘッドライトをチカチカさせながら─逢いたくてたまらなかった人と再会できた官能的なまでの喜びのシーン。
その街にいる、というだけで一種の満足感(実は海岸自体は期待していた程のものではなくて、なんだか湘南の海のような印象ではあったものの、それには目をつぶるということにして)があった。

そうして翌日。
私たちはパリに向かった。
あんなに憧れて、いつかそこに住もうと思っている街にこれから行くのだという興奮は、どう頑張っても抑えられないものがあった。
本当に?と、バスに揺られながら何度も思った。
到着した時にはすでに午後の遅い時間で、自由時間などはなく、セーヌ川クルーズを敢行するべく乗船場へ向かう。
ちょうど夕暮れ時のセーヌから眺めるエッフェル塔の美しさは思わず息を呑むほどで、赤褐色の鉄の刺繍はまさに圧巻だった。
このクルーズはオプションだったのでつけようかどうしようか迷ったのだけれど(つけなければ夕食までは自由に観光できる)、パリの街がざっと見渡せるし、降りる頃には日も沈んで暗くなっていたので、これは調度良いプランだな、と思った(これから初めてのパリに行かれる方にはぜひお勧めします。素敵です)。
この旅で一番おいしかったのは、この日の夕食だった。
パリでディナーの代表といえば、ムール貝。
この街の人はひとりで土鍋いっぱいのムール貝を食べるらしく、本当にひとりひとりの前にひとつづつ、ずっしりとした黒い土鍋と山盛りのフレンチフライが付け合わせとしてサーブされるのだ。
ひええ、と思ったものの、ガーリックとオリーヴオイルと白ワインで蒸しただけのシンプルな味はいくらでも食べられそうなほどおいしいのだった(といっても三分の二を食べきるのが限界だったのだけれど)。
さらにデザートにはお皿からはみ出るほど巨大なワッフルが出てきて、いくら甘いものが好きだと言ってもさすがに全部は食べられなかった。
余談だけれど、この食事のとき、ビールを頼んだ70代のご婦人はなかなか運ばれないビールを待てずに、忙しい店内をひとりで走り回るようにしているウェイトレスの女性をつかまえて、「ビールがこないんだけど。ビ・イ・ル」と「ビール」を強調して、「料理が先に出てきちゃうと飲みたくなくなっちゃうじゃない」と日本語でまくしたてるのを見て、女もあまり強くなりすぎない方が良いかもしれない、と思った一幕があったのだけれど、ウェイトレスの女性は笑顔を絶やさず(そして歪めず)「すみません」と英語で(フランス語ではなく)言い、あくまでも仕事の順序を変えずに(ということはつまり、やはりすぐというわけではなく)平然とビールを運んできた。
がっぷり四つ、なのだった。
結局、パリを観光したのは翌日の半日だけだった。
だから行きたいと思っていたところにはほとんど行けなかったのだけれど、それでも、パリの街の手触りは充分に分かった。
やっぱり、私はあの街をとうに知っていたのだ。
それは奇妙なことだけれど、確かだった。

この旅で一番思い出に残っていることは、でもパリのことではない。
それは、モンサンミッシェルからドーヴィルに向かうバスの中でのことだった。
本を読むと酔いやすい質なのですることがなく、車窓を流れる景色をぼんやりと見てとろとろとまどろんだり、風車が並ぶ一帯を写真に収めたりしていたのだけれど、ひまわり畑が現れるとどういうわけだか目が離せなくなってしまった。
なにしろ9月なので、夥しい数の枯れたひまわりばかりが流れていく。
それはほとんど果てしなく続くかのように思えた。
今は下を向いているけれど、この子たちは来年もまた元気に太陽を追いかけるんだろうと思った。
変だな。
そう思った途端、一瞬の内に目頭にこみ上げるものを抑えることができず、私はただ涙をこぼれるままにしていた。
何が起こったのか理解できなかった。
決して悲しいというのではなかった。
でも、胸の奥のさらに底の方に働きかける何かには気づいていた。
どうしてここに来たのか、と痺れたような頭の片隅で思っていた。
アヴィニヨンで感じたあの空気の手触りはくっきりと身体に刻みこまれていた。
それは私の中に流れているドビュッシーの旋律と共鳴しているのだ。

音楽をやめてからすでに4年の月日が過ぎようとしていた。
その間、まったく楽器を弾かなかったというわけではないけれど、もう一度この世界に戻って来ようとは考えもしていなかった。
むしろ音楽からなるべく遠ざかろうと、毎日仕事に明け暮れていた。
それは終わりのないマラソンみたいなものだった。
走り続けていればランナーズ・ハイのそれのように、いずれそれが当たり前に、充実感さえ得られるようになるんだろうと思っていた。
4年間それが得られなかったからといって、これから先は分からないではないか。
でも私の身体の細胞のひとつひとつは、音楽を覚えている。
それはどんなに見ないようにしたところで、身体の方から訴えかけてくるのだ。
どうしようもない。
私はノートを取り出して、この旅を始めてからその日までの間に感じたことを思い出す限り全て書きつけた。
ちょうどバスの一番後ろに座っていて、泣いていることを誰にも悟られずに済んだことに感謝しながら。

あの枯れたひまわりが特別な意味を持っていたわけではない。
ただ、役目を終えれば枯れるし、枯れればちゃんと次にするべきことに進むようになっているんだ、というようなことを感じたのではないかと思う(正確に何を捉えたのかということは、今考えてもよく分からないでいる)。
それは、鍵だった。
あの日見た夕暮れの枯れたひまわりたちほど美しい佇まいを、それ以降まだ見ることがない。
それから2年後、お金を戴いてイタリアンレストランで弾いた。
去年の12月のことだ。

たぶん、フランスというのは私にとってそういう国なのだ。
言葉にできないエネルギーを持っている。
五感が鋭く研ぎ澄まされてしまうので、私は手も足も出せない。
いつかあの国で暮らそうと思っていた。
その想いは今でもやっぱり変わらない。