所作の魔法

いとでんわ 第2期(2011年12月-2012年1月)

正月七日、京都の方へ新春舞初会というものに出掛けた。
縁あって日本舞踊家の西川千麗氏が主宰する「千麗の会」にご招待いただいたのだ。

これは消えゆきつつある日本のお正月の趣を味わってもらいたいという催し。
上演場所はいつも稽古をされている稽古所で。出演もするお弟子さんたちが、自ら着物姿でお屠蘇や和菓子をふるまっていた。

当日の番組は、白粉を塗って艶やかに舞うお弟子さんたちの演目が先に二つ。
ひとつ目「京の四季」はふたりでの舞。ゆったりとした繊細な表現に魅入る。
ふたつ目「春の海」はひとりで。より雄大できびきびとした舞。

そしてトリは彼女たちの師匠である千麗氏の舞。ところが、彼女は地味な着物で白粉も施さず五分ほど端唄を舞って終わってしまった。しかしながら、この舞がとてもわたしを惹きつけた。ろくに日舞を見た経験もないが、その所作に芳しい「匂い」を感じる舞だったのだ。舞にひと匙のスパイスが加わってより立体的に「匂い」がたちこめる感じ。わたしはその秘密が何なのか気になった。

その日の番組の最後に、千麗氏自らのお話が予定されていた。
「日本舞踊のこれから」がテーマ。今まで演者が舞っていた舞台に赤い敷布だけ敷かれる。その上に座布団も敷かずスッススッと座ってざっくばらんに喋りだす千麗氏。

で、この女傑の話がまぁ面白いこと!氏が日舞の門をくぐったときの修行時代の話から、ロダンの愛人であったカミーユ・クローデルの生涯をテーマにした創作舞踊について、それを行った海外公演での逸話、そしていずれ自身がどういう舞を志しているかということなど。ところどころに品性と茶目っ気を感じるとてもチャーミングな御方だった。舞は五分そこそこだったのだが、この話はとりとめや脈絡もなく優に一時間ほどは続いたと思う。しかしながらまったく退屈とは無縁の時間だった。

氏の喋る京都弁のはんなりとした柔らかさに心地よさはあったとしても、失礼ながら声や滑舌が特に優れているという感じでもない。話は行ったり来たりだし、話の組み方がうまいわけでもない。では果たして何がいいのか、話の内容を聞きながら考えていたのだが、これはまさに「匂い」を感じるお話だったのだ。ああこれは彼女の舞と同じだなと。それは程よく抑制された軽快で品の良い室内楽を聴いているようだった。

氏の話で特に印象的だったのは、稽古というものは何かを教わるというものではなく、自分自身で見つけるものであるということ。所作のどこが悪いかなんてことは結局自分が気付くしかない。師匠に注意されたことの何が悪いかなんて最初はわからないものだ。自分自身を知るにはまず自我を捨てなければならない。「わたしの舞を見て!」というようなこれ見よがしの舞ではいけない。その所作が自分を引き立たせるためにではなく、踊りの本質に近づくために在ること。

調べたところ稽古の「稽」は「考える」という意味だそうな。つまり「昔のことを調べ今なすべきことは何かを正しく知る」というのが本来の意味。観ている側にこう思われたいという自我を捨て、踊りそのものにどれだけ自分が奉仕できるかという視点で稽古する。そして、ついには内面からにじみ出る精神性と出逢うこと。それが本物の表現につながると。

ああなるほどと。舞でも話でもあのたちこめるような「匂い」は千麗氏の「稽古する生き方」の産物なのだ。所作に魔法は存在しない。一日一日、内にある精神性としっかりと向き合い稽古すること。それが表面的な立ち居振る舞いとなり、独特の「匂い」となって、まるで魔法のようにわたしたちを魅了するのだ。

新年早々、わたしはお屠蘇を口に清々しい心持となった。
今年は余分な装飾を削ぎ落とし、本質を見極めて丁寧に積み重ねてゆきたい。
そう思わせてくれる佳き出逢いの日であった。

升田学「ヒトスジ」@gallery yolcha