あさつゆ

第3期(2012年6月-7月)

 

 

 

 

 

 

こんなことを言うと、「あなたはひとでなしだ!」とおっしゃる人もいるかもしれませんけれど、そうおもうのはもっともな話だし、わたしは、「どういたしまして、ありがとう。」と返すくらいしか出来ませんけれど、世間に従っても、世間は責任をとってくれるわけではないし、他人に従っても、やっぱり他人は責任をとってくれるものでもないのだから、誰だって自分のおもうとおりに生きればいい。一人一人が、てんでばらばらな、勝手な考えや、悩みを持っていて、そんな人たちがときには集まって、それぞれが、ふとした拍子に、解決の糸口をみつけるかもしれません。だからわたしは、誰かがわたしに、ひとでなしの烙印を押したとしても、そんなことには怯えたりせずに、せめて態度くらいは、堂々としていようとおもいます。
わたしは他人に、期待も、執着も、理想も持っていない。
わたしの手を離れてゆく人をわたしは、追わない。
「手放せるほど人を愛するということは、いつまでも手放したままにしておくこと。そうでなければそれほど愛していないのだ」
人づてに聞いた言葉なので、どなたがおっしゃったのか、存じませんけれど、この言葉に出逢って、わたしは人を愛する表現を知った。

所有とは愛の破壊である(Jiddu Krishnamurti)、という言葉がいっそう真実味を帯びてきて、わたしの心臓は膨らみきっている。手放せるほど人を愛することは、なんてさわやかなさびしさだろう。不在が時に、存在よりもエネルギーにみちているとも感じられる、その感覚に近しい、手放すという行為は、いっそう愛が力強く、わたしの眼は宇宙に在るが如く、遠くから見守ることを可能にさせる。愛をもって。
愛について、見守ることをわたしは第一に考えています。家族でも恋人でも子供でも、介入しないで見守ることを大切なことだとおもっている。一人で生きていくと腹をくくれば、人は孤島なのだと知れば、結局のところ、二人でも、世間でも、人は自立して生きていける。期待も執着も理想も、そうと気付かずに、相手も自分も縛られてしまう。それは所有したいという心理。わたしは自在に変化したいし、停滞なんてしたくない。愛する人にもそうであればいいとおもうけれど、その人がそうおもわないのであれば、それもよいとおもう。それをあなた方がどうおもうかは分からない。つめたい人間だとおもってくれても構わない。否定されても、それもいい。わたしが愛したという確かさだけが、在ればいい。
わたしの手を離れてゆく人を手放しておいたまま、さわやかなあきらめのあさつゆのように、わたしは潤んでいます。

あなたはわたしをやさしい人だと言う。いいえわたしはひとでなしなんです。人と接しているときにしか、人に親切に出来ない。やさしさを持っているのはわたしじゃない。やさしいのは、あなた方です。

 

「感謝しているんです。」
(「いったい誰に?」)
「わたしの人生にです。」