ディアスポラ

第3期(2012年6月-7月)

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉には裏表があるけれど肌には表しかない
だからきっと、肌にふれている間だけは
あなた方はほんとうのことを話している

およそ真実らしい事柄の一切が
肉体と接している瞬間にしか感知出来ないのだとしたら
だとしたら?
そよかぜのようなあきらめが前髪を撫でて
やわらかいからだの線をすべりおちてゆく

中井英夫の火星植物園で、薔薇の根に倒錯的な恋愛をしてしまう男の話がある。妄想は加速して、ただ薔薇のために生きたままの肉体を捧げ、地下に潜む根のために奉仕できるならば、それだけでいい、とまで想い至る。この変質的な愛は、病的に詩的で、美しいと思った。

V.Gよ
パリ北方の小さな村の
川の段丘にひろがる麦畑の中で
ピストルで自分の胸を撃った
「僕はもう不幸にたえられなかったので、自分を撃ったんだ」
彼の生前に売れた絵は、ただの一枚だけである
どれほどの死後の喝采も、生きていた彼を幸福にはしない
彼の魂は土の中だ

ずっと以前から準備されてきた自殺ともいうべきもの
(Charles-Pierre Baudelaire)

言うべき事だけを言い、言いたいだけの事には、口をつぐむ。

ツルゲーネフ『はつ恋』のジナイーダ、谷崎潤一郎『痴人の愛』のナオミ、夢野久作『少女地獄』の姫草ユリ子
男を狂わせ翻弄させる女に、
崇拝ともいえる心情を抱いています

照明は、良い灯りをつくるためにあるのではなく、良い陰をつくるために、あっても良いとおもいます。

大切だから、わたしから遠ざけておきたい、というひとが居る。

ただ、しんせつなだけで、人のことが、ほんとうにすきではない友だちなら、ほしくないや。それに、自分がいやな思いをしたくないから、しんせつにしているだけの人もいらないや。
そんなことをおもうホムサ=トフトにわたしは親しみを感じるけれど、ホムサ=トフトはわたしを友だちにはしてくれないかもしれない。

脳から舌までの距離は、地上から月までの距離に匹敵する
というようなセンテンスを昔何かの小説で読んだ気がする。
わたしは人と会話をするとき、ロケットが月まで発射される光景をおもい浮かべる。
(オースターの小説だったような気がするけれど、てきとうにオースターの小説を三、四冊めくってみたが、該当するセンテンスを見つけられなかった。ぜんぜんちがう人かもしれない。)

与えるだけでいいって思って、それはどこまで許されるのだろうとつくづく頭を悩ます。飼い犬の頭を撫でるような無神経な手になりはしないだろうか。

何かを表現したいのに仕方も才能もない不幸と、才能と成功に恵まれても芸術は自身を救わないことを知っている不幸とはどちらも同様に悲惨である。

協調性という言葉は、周りの人間を自分の思い通りに従わせたい人が考え出した言葉だ。
協調性という言葉は、風邪っ引きの豚のくしゃみだ。

好きな人がいるということはいいことです
嫌いな人がいるということもいいことです
だからわたしは
人からきらわれても
「それはすばらしいことですね、大事にしてください」
と言うことができます

どうしてこんなにも
自分のことしか考えないんだろう
ディズニー映画のラストシーンのような
すべての色彩が鮮やかさを増していく中で
心が純白を失くしてゆくのに
私は耐えられなかった

形式だけの夏になった
エアコンで温度調整された閉め切った部屋で
送り出される冷たい風の音だけを聞いて
セミよりも大きな
サイカドーハンタイ
サイカドーハンタイ

外で泣いています

証明済みの天国について
悩まないこと
議論しないこと
子供の未来など考えないこと
地球が壊れたら火星に行けばいいと
考えている人がいる
死ねばいいのに

おもわれている
形式だけの夏になって
心が純白を失くしてゆく

孤独のなかの神の祝福

撒き散らされた植物の種のように
あらゆる思考の種
あらゆる哲学の種
あらゆる言葉の種が
わたしの血肉となって
わたしの魂を形作る