惑星ピクトグラム

第3期(2012年6月-7月)

サラリーマン時代、片道2時間ほどかけて通勤していた数年間、
その毎日たくさん見たであろう景色がどうも思い出せない。
往復映画2本分の旅。
なのに「世界の車窓から」の5分さえも持たせることができない。
数え切れないほどたくさんの人とすれ違ったはず。
でも、それは「知ってる人」と「知らない人」というただ2つだけの分類だけで
「知らない人」に分類された人はトイレ前の青と赤の男女、
もしくはや非常口に走る性別もわからないランナーのように、
最小限の情報で形成されたピクトグラムみたいに見えていた気がする。

写真と出会い、少しづつ世界が変わっていった。
見たことのない、でもきっといつも見てた花の名前が気になりだし、
名前なんかいらない雲にメリーやドリーなんて名前をつけたり、
そしてピクトグラムみたいだった人に表情が生まれた。
それまで自分の眼はピッ、ピッってオートフォーカスしては距離だけ測ってるけど、
実際シャッターを切ることはなく、ファインダーをのぞいてさえもいなかったんじゃないかと思う。

母をローライフレックスで撮ったことがあった。
真四角のファインダーの中の母はとても小さかった。
だけど、肉眼で見るよりずっと鮮明だった。
「こんなに痩せてたっけ?こんなに皺あったっけ?」
唐突に涙があふれ出した。
自分でもびっくりするくらい唐突に。
暑くて汗をかくように感情よりも先に出口を求め噴き出している、そんな感じだった。
「きれいに撮ってね。」ってずっと同じポーズで立ちつくす母に
「ありがとう。ごめん。」
頭の中でそう繰り返しながら、汗をぬぐうふりをしてシャツで目をこすった。

それから、どうしても母を祖母に会わせたいと思った。
もう、ずいぶん会っていないことは知っていた。
数年ぶりの再会。
祖母は90歳を越えていてもう目がほとんど見えない。
「こんな老いた姿は見られたくない。」
と最初は乗り気じゃなかった祖母だけど、
「写真撮るよ。」と言うと昔のような優しい笑顔で答えてくれた。
精一杯おめかししてきた祖母には失礼だし、馬鹿げた話だけど、
僕はこの大きな宝石のついた指輪の存在を覚えていない。
それよりもその皺だらけの手がただただ美しく、ただただ愛おしく思えた。
写真は真実だけを写さず、時には嘘だってつける。
でも、少なくともそのとき心の「真ん中」にあるものを残してくれる。

重力で地上にはりついているとその下にある地表の形や重さがわからなくなる。
写真を撮るということははその重力から自分を解き放つ行為なのかもしれない。
近すぎて見えない惑星をいったん外からのぞいてみる。
そして、仕上がったものを見て再びその惑星から外をのぞく。

僕はこの惑星をただの○って書いただけのピクトグラムにしたくなくて、
今日も写真を撮り続けるんだと思う。