0、それから1

第3期(2012年6月-7月)

 

 

 

 

 

 

(光にあふれ、やさしいまなざしがそそがれている写真をとてもすばらしいものだと素直に感嘆しながらも、どこか仄暗く、陰りがあり、湿り気を帯びた写真に、どうしたって惹かれてしまうのは、そういうものこそ、わたしの眼にはリアルだからかもしれない。)

表現する、ものをつくるのは、なんの疑いも持たずに、出来の良し悪しにかかわらず(「それは他者が勝手に決めればよいことで、私のあずかり知るところではない」、と自身にとき付けていた)、それはわずかながらにも尊いことなのだと信奉していたある日のこと、わたしのあたまにニョキニョキとエゴイスティックという角が生えていたのに気付くのが遅すぎた。

自己を消す、意図を消す、主観を消す、そうして現象だけを落とし込む。そこから導き出される美。そういうものをつくりたいととみに考えている一方で、それが正解なのかと問われれば歯切れの悪い返答しかできずに困っている。一度すべてを捨て去れば、現象だけを落とし込むという着地点に降り立つことができると身を投げた挙句の果て、わたしはわたしを削っていって、その先に目指す、どうしても捨てきれなかった「わたし」に楽欲していて、結局のところ、あとに残ったのは「わたし」というどうしようもないエゴイズムの燃え殻なのだと、ぐうの音も出ない程に絶句した。

有りの儘を有りの儘に客観写生すると作り手という存在は消えて作品だけが語り出す気がする。わたしは透明人間になりたいとおもっていた。作り手の身体が消失するということは、限りなく作品は「自然」に近づくのだと考えていた。作り手と受け手とのコミュニケーションよりも作品と受け手との関係性を優先したいとわたしはあれかしと祈っていた。その思いを引こずりながら、どうしたって、どうしようもない程に、「わたし」という個はそこに在る。

表現するという行為は、自分の頭の中身(曖昧で不確かで、あるいは複雑で非常にはっきりとしたイメージを持っている)を外に出してかたちにするということで、芸術に限らず、誰もが日常生活に於いてなにかしらの表現をしている。(それは会話だったり料理だったり、あるいは花のかざりかただったりする。)それを誰かから好きだと言ってもらえたり共感してもらえたら、自分の頭の中身が認められたんだな、とそれは安心出来るしほっとするんだろうな。嬉しいね。だけどね、仮定の話として、わたし/あなた方の表現に(あまりにおおげさな言い方をすると)「世界が一丸となって共感する」というのなら、わたし/あなた方という人間は不要なのだとおもう。つまりわたし/あなた方は代替可能な存在だ。組織や社会にとって人間が代替可能ということは世の中がうまくまわるために大切なことだ。けれど、そうじゃない人間がいたっていいんじゃないの。(「共感しました!」「よく分かります!」そんな言葉が世の中にあふれていてわたしはいつか無難なことしか言えない人間になってしまわないかおそろしいんです。)分からないなら分からないで、不都合はないと、分からないひとには、決して一切分かりっこないのだから。誰一人共感されず理解されず、誰一人好きだと言われないものをつくっていても、そういう表現者がいても、わたしはそれを尊いことだとおもいます。