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2F/当番ノート

今を生きた証(ふたたびウェストンについて)

当番ノート 第4期

前回、エドワード・ウェストンの話をしました。彼の日記を読むとウェストンの写真を最初に買い始めたのはロサンゼルスのリトルトーキョーに暮らしている日本人達だったということが綴られています。
今から90年前、絵画主義的な作風で若くして高い評価を得ていたウェストンは、その地位を捨て、メキシコの前衛芸術家達との交流の中から新しい写真表現のあり方についての実験の最中で、当時彼の新作を受け入れる様な環境はほとんどありませんでした。ぼくたちの先人達は、この新しい表現に対して真っすぐに向き合い、対話し、自分の気持ちに素直にしたがって面白いと思えるものに手を挙げたのです。
日本の、東京の写真業界では長らく日本には写真をコレクションしたり買ったり売ったりする文化がないといわれてきましたが、大変興味深いエピソードだと思います。

ギャラリーの仕事を続けながら、その折々ぼくと妻は様々な写真作品を集めてきました。自分の会場で開催した作家の作品、出先でふらっと入った展覧会で興味を持った作品、その他にもこういう仕事をしているので、作家さんからプレゼントして頂いたものもあります。美術館や企業が買うのと違って、ぼくたちは系統だった収集でも何でもなく、単にその時々の興味のおもむくまま大したポリシーもありません。
欲しいと思ってしまう理由を言葉で説明するのは大変難しいです。よそのギャラリーで欲しくなるプリントは、たいていの場合、会場に入った瞬間に自分の心がざわつく感じがします。近くで観て離れてみて、別のものも観て、沢山ある中から1枚だけ選ぶというのは、作家さんの想いを考えると自分としても不本意ではあるけれど、個人的でささやかな愉しみに過ぎぬぼくたちのプリント収集においては、1枚しか手に入れる事はできないのです。でも自分なりの1枚を選び抜く、本気で写真を選び抜く作業というのも結構楽しいのです。

それでも10年以上にわたってコツコツと集めて来たプリント達を改めて眺めてみますと、金額の大小(小は数千円、大は数十万円)こそあれ、思い入れの強いものばかりです。同時に写真に囲まれて暮らして来た今までの足跡がそのまま刻まれている様な気分になります。
写真表現は自分を映す鏡と形容されます。本棚にならぶ本の背表紙を見て、持ち主の「知の風向き」に想いを馳せたりしますが、好きな写真に手を挙げて手元に置く、という行為を続けていくと、自分の興味のありよう、社会に対する意思表示など、それもまた自分の姿を映しているように思えます。
ミーハーな人も天の邪鬼な人もその人なりのコレクションが形成されるのです。

2年程前から、自分の会場で3度目4度目の個展に挑む同世代の作家のプリントを会期が終わる時に1枚買う、ということを続けています。単に絵柄が気に入ったからとは別の理由があります。
ぼくは小さいながらも写真ギャラリーの主宰者として同じ時代を生きる作家さんと出会い、その活動の現場を間近で見てきました。その大半は写真集という形にも残らず、何人かの心の中に刻まれて、歴史に埋もれてしまうかもしれないのですが、戻る事ができない今という時間の中で、自分が面白いと思った作家達といくらかの時を共有したという証を自分の手元に置いてみたくなったのです。15年とか20年という期間の中でそういう集め方も加えていこうと思いました。

これをお読みの方で、写真が好きで時々写真展にお出かけの方は、同じ時代の写真表現に立ち会った証人のような存在です。決してその場を通過する人ではあってはなりません。例えばこの一年ので一番良かったと思えた、特に社会的に評価の定まっていないような表現に出会って心がざわついた作家はいなかっただろうか、思い出して頂きたいです。出来ればそういう作家のプリントを1枚お求めになると尚良いと思います。それがその人にとって今年写真と共に生きた証です。未評価の作品は元々値段の高い品物ではありません。ちょっと手を伸ばせば届く程度の金額ですし、展覧会の会期が終わっても、ギャラリーに問い合わせれば作家とコンタクトを取ってくれて買う事ができます。あと3ヶ月程で今年も終わりますが、こういう作品との付き合い方の経験がない方はぜひお勧めします。

インテリアとしてのアート、インテリアとしての写真を提唱される方もいます。コレクターの裾野を広げるための試みと解釈することも出来るでしょうが、ぼくはこの考え方は、全面的に賛成することはできません。インテリアとは、今暮らす住空間に調和するように作品を置く、という考え方です。
しかし、芸術作品は常に生活空間に調和し、馴染むばかりのものではありません。以前にもお話しした通り、芸術的な感動とは自分と異質な感性に出会う事であって、最初は違和感を覚えるものであっても、それを受け入れる事によってやがて異質なものは異質でなくなっていく。そして新たな感性と出会う、ということを繰り返していくものです。不思議なもので、新しい作品を自宅に連れ帰って来た当初はどうにも場違いというか、空間から浮いた感じになっていても、少し時が経過すると生活空間のディティールのひとつとして、ぴたりと収まっているように感じてきます。単に眼が慣れたのではなく、自分がその作品を生活空間の中で「使う」ことによって体の中からその感性を受け入れたから、見え方や感じ方が変化したのです。
つまり、作品は部屋の彩りとしてだけでなく、作品そのものの力を活かした使い方が沢山隠れていますから、最初からインテリアとして作品を観てしまうのは、ギャラリーで作品を見たり選んだりする面白さを自ら削いでしまっているように思えてならないのです。

さて、もう一度、自分が欲しいと思ってしまう理由について説明することを試みたいと思います。自分が心を動かされるイメージとは?
派手なイメージは好きじゃありません。いたずらに一等賞を争うような自意識が強い感性の押し売りみたいなものは嫌いです。派手なものを押しのけ、その間に隠れるような地味でも味わい深いものを探すのが好きです。豪華絢爛に咲き乱れる櫻の下で宴に興じるよりも、町の片隅で小さなライトに照らされた櫻の美しさに息を呑むような。そういう作品を丁寧に両手で掬いあげるように受け止めながらこれからも写真と付き合っていきたいと思います。

時々使う言い回しなのですが、派手が嫉妬するほど美しい地味。

そういう魅力を持つまだ観ぬ作品とこれからも出会えることを期待しつつ。

2ヶ月間お付き合い頂いた方、心よりお礼申し上げます。またどこかでお目にかかりましょう。

篠原 俊之

篠原 俊之

1972年東京生まれ 大阪芸術大学写真学科卒業 在学中から写真展を中心とした創作活動を行う。1996年〜2004年まで東京写真文化館の設立に参画しそのままディレクターとなる。2005年より、ルーニィ247フォトグラフィー設立 2011年 クロスロードギャラリー設立。国内外の著名作家から、新進の作家まで幅広く写真展をコーディネートする。

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