ラジオ 第一話「うさぎです」

第7期(2013年2月-3月)

 細い通りに白い大きなうさぎが座っている。長い耳のすぐ先を、黒ずんだ薄い雲が押しあいながら流れていく。流れていく先の低い空に小さな太陽がぼんやり浮かんでいる。その淡い光を受けてうさぎの白い体毛はほのかに赤く染まり、鼻先の黒いマスクは光沢を浮かべる。
 うさぎはとても大きい。すぐ横にある二階建ての古いアパートメントとほとんど変わらない大きさだ。マスクのフィルターから小刻みに息を漏らしながらアパートメントの外壁にすり寄り、二階の窓の一つに片目を近づける。
 ほこりっぽい窓ガラスのすぐ向こうに一人の人間が横たわっている。体はくたびれた灰色の毛布に、顔は豚づらの黒いガスマスクに覆われている。ほつれた毛布の端から人間の生身の手がとまどいながら這い出て、ガスマスクに触れる。頬の黒いゴムバンドを少しだけ引っぱる。口のフィルターを確かめる。毛布が波打ち、両腕が出てきて伸びをする。
 彼は粗末なベッドの上に体を起こし、うなだれ、マスクの上から額に手を当てる。夢を見ていた。地震の夢だった。遠くから地響きが近づいてきて、その先にあるあらゆる恐怖を彼はすでに知っていて、一つずつ思い出し、そして毒の火山の噴火に思いが至ったときに目を覚ましたのだった。ちょうど二年前だった。彼は大学を卒業して三年ほど経たところだった。それを境に、彼の生活はいくつかの点で変わった。彼はフィルターに向かって深く息をつき、散らばったその息を集めてすくうように両手を広げて並べる。しばらくのあいだ、彼は白っぽいレンズ越しに二つの手のひらを見つめる。
 やがて彼は身震いをする。部屋の中は寒い。彼はもとの色も分からないほど色あせた作業着を着ていて、上着は持っていない。ほかの服もない。そこで彼は作業着の上からもう一度毛布をかぶり、肩に巻く。しっかり巻きつけてマントにする。フィルター越しに音を立てて長く息を吐く。
 彼はベッドを下り、窓とうさぎには気づかないまま、小さな丸テーブルに手を伸ばす。へたった紙袋の手前にある黒いポータブルラジオを手の中に収める。持ち上げてスイッチを入れると、プラスチックのスピーカーからひそやかな声が聞こえる。朝のニュースだ。彼はそれに耳を貸さず、手の中でラジオのダイヤルを転がす。ニュースはノイズに沈み、代わりにポップ・ソングが浮かんでくる。電子オルガンの空騒ぎが遠くから聞こえる。彼はラジオをそのままテーブルに戻し、ガスマスクの中であくびをする。テーブルの紙袋からゼリーの入ったパウチを取り出す。顎のあたりからマスクをずらし、口元の隙間に白いストローの先を差し込む。しばらくするとストローの中を白い糊が這うように上っていく。かすかな塩ときついプラスチックの味がする。
 彼は朝食を吸いながら振り返ってテーブルに腰を預け、ガスマスクをベッドの上の窓に向ける。マスクの丸いレンズと同じように、窓にはまっているガラスも無数の細かな傷のために白く濁っている。その向こうから、窓いっぱいの巨大な目が彼を見ている。じっと見ている。彼は急にせき込み、パウチを握った手をテーブルに打ちつけ、あわててガスマスクをもとに戻す。その横でラジオはエレクトリック・ギターのリフレインを流している。彼はマスクの中で目を丸くしながら息を吐き、驚きの中でようやく息を継ぐ。毛布が床にずり落ちる。
 巨大なうさぎの目が彼を見ている。大きく開いた瞳のまわりが赤い。目のまわりの毛並みはまっ白で、耳は窓から見えない。彼がテーブルから腰を浮かせると、うさぎの目もわずかに動く。彼が息をこらしながら足を動かそうとした瞬間、巨大な目は急に飛び去り、黒いマスクを着けた鼻面が窓を突き破る。ガラスがベッドに流れ落ち、木枠は彼の足元まで弾け飛び、彼は部屋の隅まで飛び下がる。背中にドアが当たって情けない音を立てる。口のフィルターから漏れる息が荒い。窓から侵入してきたうさぎのマスクからも、しきりに空気が吹き出している。
 彼は息を整えられないまま手をゆっくりと胸の前まで上げ、ガスマスクをほんの少しだけ下に傾け、自分がなにを握っているのか確かめる。ポータブル・ラジオだ。いつ手に取ったか分からないが、彼はそれを考えもしない。窓に目を戻す。手の中のラジオはポップ・ソングの演奏を終え、だらしない笑い声を流しはじめる。彼が息をついた瞬間、彼の背中をノックする固い音が三度鳴る。彼はマスクの中で短く声を上げ、ドアから背中を離す。だれかが廊下からノックをしている。だれだ、と彼は思う。少なくともこのアパートメントの住人ではない。ここに住んでいるのは彼ただ一人だからだ。ドアはまた三度鳴る。彼は慎重に半身になってドアを開ける。
 廊下には二人の男がいる。同じ形のガスマスクを着けていて、それはうさぎの顔に似ている。二人はくぐもった声で同時に言う。

 どうしましたか。

 二人とも燕尾服を着て、黒の蝶ネクタイをしている。
 彼は部屋の奥を指さす。うさぎです、と一人が言う。われわれが乗ってきたうさぎです、ともう一人が同じ声で言う。彼は次に二人の男を順番に指さす。工場から参りました。あなたをお迎えに参りました。彼はもう一度窓を指さす。うさぎです。あなたが乗っていくうさぎです。
 窓の外のうさぎはふたたび窓に目を寄せている。彼は窓から目を離さずに部屋を出る。燕尾服の一人が彼の手首を強くつかみ、もう一人がすばやく彼の手をはたく。彼が自分の手にマスクを向けたときには、すでにポータブル・ラジオはコンクリートの廊下に墜落していた。そうして彼の見ている前でスピーカーが割れる。彼はそれを拾おうと思ったが、できなかった。手を伸ばす隙もなかった。そのラジオはずいぶん古い品で、プラスチックがもろくなっていたらしい。右の男の左の靴、左の男の右の靴、二つのつややかな革靴が同時に踏みつけると、そのかかとの下で、ラジオはコイルやらコンデンサーやらをぶちまけて潰れた。残骸を見下ろす彼の耳に、潰れる直前に聞こえた笑い混じりの悲鳴が残る。
 彼は顔を上げ、二人のマスクに自分のマスクを順番に向ける。二人は同時に少し首をかしげる。彼は二人の靴を指さす。これはあなたのラジオではありません、と一人が言う。これはあなたに不要なものです、ともう一人が言う。
 彼はこぶしを固め、言葉を絞り出す。壊れる前はぼくのものだった、それに、必要なものだった。
 一人が彼に歩み寄って言う。あなたは工場でラジオを作らなければなりません。
 もう一人が彼に歩み寄って言う。あなたはあなたの工場であなたのラジオを作らなければなりません。

(第二話へ続く)