ラジオ 第三話「七台めのラジオ」

第7期(2013年2月-3月)

 彼は二人の男がガスマスクを着けていないことを気にしながら首を動かし、白くかすんだレンズの中に建物を入れる。目を見開く。似ている。工場と呼ばれるその建物は、今朝まで寝起きしていたあの古いアパートメントにそっくりだ。彼は大きなうさぎの背中にまたがったまま、首を小刻みに動かして見回す。確かによく似ているが、しかしまったく同じではないことに気づく。外壁は古いが、老紳士のような気品を備えている。煉瓦は少しばかり丸みを帯びながら隙間のない壮健さを保ち、時間が侵食するための足がかりがない。
 二人の男が動く気配がして、彼は我に返る。マスクを向けると、一人はうさぎの背中から下りはじめていて上半身しか見えない。もう一人も鞍から垂らされた縄ばしごに足をかけ、続いて下りようとしている。二人はそれぞれ顔に笑みを浮かべ、優雅な手振りで、彼に下りるよううながす。
 彼は建物にもう一度マスクを向け、屋根を見上げる。白い雪が残っている。その下、二階の窓の一つに彼は目を凝らす。アパートメントでいえばちょうど彼の部屋に当たる窓だ。彼は吸い込まれるほどじっと見る。
 ほどなく、彼はその中に立つ。
 二人の男はホテルマンのしぐさで同時に頭を下げ、ラジオを作るよう丁重に言い残し、ドアを閉める。残された彼はマスクを傾けて部屋を見回す。ここもまた一見すると彼の住んでいた部屋に似ている。部屋だけでなく、通ってきた廊下も階段も、造りそのものはあのアパートメントとよく似ていた。しかしこちらは清潔で手入れが行き届き、あちらは朽ちかけていた。まるで生き別れて両極端の境遇にある双子のようだ。不幸な片割れには寒空が、幸福な方にはほどよい空調が与えられている。錯視のようだと彼は思う。どうしてこうも違うのか。扱いを除けば、違いは、小さな丸テーブルの代わりに壁際に簡素な作業机が据えてあるだけだ。
 彼は机の前の椅子に腰かけ、マスクのレンズ越しに窓を見る。こちらはまだ壊されていないようだ。似て非なる窓から、まったく見知らぬ白い森が見える。空は不気味に迫るように青く晴れている。近くと遠くが不自然に接続されている。彼の口から声が漏れる。ここはどこだ。あの巨大うさぎがどれくらいの時間、どれくらいの距離を走ったのか分からないが、少なくともここは人里離れた森の奥深くで、連れてきた人間を囲い込んで労働させるにはちょうどよさそうだ。
 彼はフィルターに息をつき、机の引き出しを開けてみる。はんだごてや大小のドライバー、ニッパーが整然と収まっている。訓練された兵隊のようでもある。彼はとがった形の小さなラジオペンチを手に取り、それを眺めながら考える。建物の快適さに惑わされてはいけない。あの二人の男だって、腰を低くしておきながら平気でラジオを踏み潰すような連中だ。いつ自分が同じ目にあってもおかしくない。今のところの客扱いは確保できる労働者が不足しているせいかもしれないし、または奴隷扱いするよりも生産性が上がるだとか、そういった経済上の理由があるのかもしれない。とにかくわずかでも条件が変われば自分自身が踏み潰されてもふしぎはないし、その条件はまだ一つも分からない。とすれば、当面は言われたとおりにラジオを作るほかにない。
 彼は机の下をのぞき込み、なんにせよ、と思う。痛い目に遭わないのであれば、なんだって構わない。帰りたい場所も、行きたい場所も、ありはしないのだ。
 机の下の暗がりに真新しい木箱がある。引きずり出して蓋を外すと、機械の部品が種類ごとに分かれて収まっている。二人の男の説明によると、ラジオの部品らしい。白いケースや基板用のプラスチック片、小型のスピーカーやアンテナ、透明の小袋に入ったねじ、コンデンサー、設計図を綴じた半透明のファイル。彼はとりあえず一台組み立ててみることにする。木箱からいくつか部品を取り出し、机に並べる。設計図と手元を見比べながら、基板に配線する。ニッパーで余分な線を切り落とす。コンデンサーを取り付け、はんだで固定する。手作業に没頭していく。
 やがて一台のラジオが完成する。それは白いうさぎの形をしていて、彼の所有していたポータブル・ラジオとはまったくかけ離れている。彼はうさぎの耳をつまみ、自分のマスクと向かい合わせに置く。設計図を見たときに気づいていたのだが、忠実にうさぎを模してあるようだ。最近の子供向け玩具はこんなものだろうかと彼は思う。ばかばかしいとも思いながら、ラジオとしての機能を確かめるため、淡い桃色をした鼻先を指で押さえる。耳のスピーカーからポップ・ソングが流れ出す。ポータブル・ラジオが最後に流した曲だ。うさぎの尻尾のアンテナを伸ばし、戻す。基板の配線は不恰好だったが、機能には問題ないようだ。音質も悪くない。その点についてはあのラジオと遜色ないか、あるいはよりよいかもしれない。
 彼はスイッチを切り、戻ることのないものをなぐさめるように次に取りかかる。二台めを作り上げたあとも、彼は休まず次々とラジオを組み立てていく。三台め。その手つきから次第にむだが削がれていく。四台め。手や指は工作機械になったかのように精密に動きつづける。五台め。知らず知らずのうちに、作ることの喜びに満たされる。
 いつしか窓は完全な闇に覆われる。彼は卓上灯だけをつけ、その丸い光の中で、机の奥に並ぶラジオの列に六台めを加える。そうしてやっと手を止め、整列するうさぎたちを見渡す。心地よい疲労に浸りながらマスクの中で息をつく。ゆったりした手つきで最後のラジオの受信確認をする。どこかで聞いたポップ・ソングの切れ端がこぼれ落ちる。彼はすぐにスイッチを切る。

 どうでしたか。

 彼が食堂に行くと、二人の燕尾服の男が声をかける。二人は向かいあって座り、それぞれコーヒーカップを手に持っている。彼は少なからず興奮していたことが妙に気恥ずかしく、あいまいな返事をする。
 食堂は一階にあり、四人掛けの丸テーブルが二つ置いてある。一つには二人の男がいて、もう一つには一人の女がいる。女はまっ白なブラウスを着て、手元にコーヒーカップを置き、なにやら思いにふけっているようだ。その美しい顔に気を取られまいとしながら彼はカウンターに歩み寄り、年を取った調理師から食事を受け取る。
 女は彼を一目見て、少しだけ眉間にしわを寄せる。急に立ち上がり、彼とすれ違うようにカウンターにカップを置き、怒りを含んだ小さな声で言う。

 いつまで着けているの、それ。

 その声は鋭く研がれた銀のナイフだ。女は返事も待たずに食堂から出ていく。
 彼は空いたテーブルにトレイを置き、乾いたサンドイッチを眺めながらガスマスクのフィルターに手を触れる。不意に指先を少し切ったような気分のまま椅子に座る。女が忘れていったのか、うさぎのラジオが彼を見上げている。

(第四話へ続く)