ラジオ 第五話「目まい」

第7期(2013年2月-3月)

 女の声が語りおえると彼はラジオを切った。どこか遠い土地の話だった。椅子にもたれてガスマスクのフィルターに息を吹き込んだとき、彼の中に、自分もまたどこか遠い土地にいるのだという考えが浮かんだ。ここはここでありながら、同時にあちらなのだ、と。彼はそれがどういう意味か分からないまま卓上灯を消した。
 次の朝、彼はガスマスクを外すことにした。ベッドの上に体を起こし、頭の後ろの留め金を外していった。ためらいはまったくなかった。顔からマスクを引き剥がし、それからくしゃみをした。顔のあたりが心もとない。窓を開けてみて、またくしゃみをした。冷たい空気の流れ込む窓から外を見渡すと、目まいがしそうになる。世界が目の奥になだれ込むようだ。世界は記憶の中にあったものよりずっと広く、ずっとまぶしい。彼はガスマスクをベッドの上に放り、足元に気をつけて部屋を出た。

 案外、普通の顔ね。

 うさぎ小屋で、彼女は言う。肘を鉄製のそっけない欄干に乗せ、まっ白なうさぎを見下ろしている。大きなうさぎは三羽いる。いずれもせわしなく頭を動かし、山積みの干し草やにんじんを食んでいる。
 彼もうさぎに目を向けたまま、まあ大きいだけで、うさぎはうさぎだね、と返事をした。うさぎは三羽とも同じ外見で、もちろん今は鼻先にマスクを着けていないので、彼には自分がどれに乗ってきたのかは分からない。
 彼女は少し笑い、あなたの顔よ、と言った。
 彼は苦笑いをしながら、当たり前だろう、と答えた。そうして息継ぎをするように彼女を見る。彼女は濃い緑色の古くさいダッフルコートを着て、新雪のような表情でうさぎを眺めている。
 朝、彼は部屋を出て、食堂に向かったのだった。食堂の前で足を止め、昨晩のあの女がいなければいいと考えながら扉を開けた。あの女というのは、今彼の横にいる彼女のことだ。そのときは、昨晩の一言だけが理由でガスマスクを外したのだと思われることがしゃくだったのだ。ここではガスマスクが要らないことはすぐに気づいていたし、言われるまでもなく、すぐにでも外すつもりでいたのだと彼は考えていた。だが食堂に彼女はいなかった。彼は安心した反面、ずっと彼女のことを気にしていたために、拍子抜けしたような、物足りないような気がした。
 食堂には二人の燕尾服の男がいて、彼に気づくと相変わらずの口ぶりであいさつをした。彼の顔には気に留めていないようだった。二人の男は交互に言葉を継ぎ、作ったラジオのうち販売に回せると思われるものを倉庫に持ってくるよう言った。彼は反射的にその丁重さの裏を見極めようとしたが、ちょうどそのとき、彼女が食堂に入ってきた。彼女はゆっくりと彼の向かいに座った。彼はほとんどなにも考えられず、ただ気まずさだけを感じていた。彼女は薄切りのトーストを手元でちぎりながら、ちょっといいかしら、と言ったのだった。
 朝食のあと、彼は彼女に連れられてうさぎ小屋にやって来た。うさぎ小屋は工場と同じように古いがしっかりしたれんが造りで、外から見ると屋根の高さも工場と変わらなかった。彼は中に入り、造船所を思い浮かべた。小屋の中はずっと遠くまでまるまる一つの大きな空間になっていて、いくつも並んだ窓のそれぞれから淡い光が差し込んでいる。奥は白くかすんでいる。壁の内側には断崖を這う桟道のように細い階段と回廊が巡らせてあり、彼女と彼は回廊の半ばあたりで欄干にもたれてうさぎを眺めている。
 彼はもう一度彼女を見て、海を映しているとでも、と言った。
 そうね、と言って彼女は笑う。
 そんなわけないだろう、と彼は言う。一人で気まずく思っていたことがなんとなくばからしく思えてきて、それで彼は短く笑った。
 彼女は彼を見て、聴いてくれたのね、と言う。
 彼はうさぎに目をやりながらうなずく。手前のうさぎが頭を持ち上げて巨大な目で二人を確かめ、すぐに食餌に戻った。
 昨晩あのラジオから聴いたのは、本当に彼女の声だったのだと彼は思った。なぜそうかもしれないなんて思ったのだろう。なぜ彼女は自分がそれを聴くように仕向けたのか。あらかじめ新入りが来ることを知っていなくてはあんなふうにはできなかったはずで、偶然ではないだろう。それに、なぜあんなやりかたで放送を聴かせたのだろう。普通に告知することはできなかったのだろうか。いくつかの考えが浮かんではどこにも繋がらないまま消えていき、結局彼の口から出た言葉は、どこから放送していたの、だった。
 工場の中に放送局があるのよ、と彼女は答えた。
 放送は、今日も。
 そうよ。
 同じ時間に。
 そう。毎日、あの時間に。
 そう。
 今夜も聴いてくれるかしら。
 どうしようかな、と彼は言った。彼女は彼を見てほほえんでいる。彼は彼女から目を逸らし、欄干からまっすぐ下をのぞき込んだ。ガスマスクを外して以来、距離感がおかしいのだ。彼はまたしても目まいを感じながら、聴くよ、と答えた。

 ありがとう。

 彼は部屋に戻り、二人の燕尾服の男に言われた通りに昨日作った六台のラジオを倉庫に届けたあと、昨日と同じようにうさぎの形のラジオを作って過ごした。昨日ほど集中はしなかったが、慣れてきたこともあって、彼自身は組み立ての精度に満足だった。
 昼過ぎ、彼はかすかな地響きに気づいて手を止めた。窓の外を一羽の巨大うさぎが跳ねていくのが見えた。彼は窓ガラスに額を寄せてそれを見送った。うさぎは背中に荷袋を二つ、左右で釣り合いが取れるようにぶら下げていた。ラジオを出荷するのだろう。しかしあんなに跳ねていっては、せっかくのラジオが壊れてしまうではないか。彼はそう思い、次から基板のはんだを増やすことにした。
 彼は作業をしながら、そのうちにうさぎ小屋でのことを思い返していた。うさぎ小屋で、もう少しだけ彼は彼女と話をしたのだった。
 彼女はまじめな顔で言った。ここのうさぎはなんのためにこんなに大きいか、分かるかしら。
 知らないよ、と彼は答えた。
 当ててみて。
 乗り物かな。
 半分正解ね。
 残りの半分は。
 非常食。
 彼は驚いたが、よくよく聞いてみると、その答えは単に彼女の憶測に過ぎないようだった。彼がそれを指摘すると彼女は笑いながら、そうだけど、と言った。
 でも、おいしいのよ。彼女は続けて言ったのだった。食べたことあるかしら。
 普通のうさぎなら、と彼は答えたのだった。何年前だったかは思い出せないが、どこかの料理店で食べたことがあるはずだった。だが何度思い出そうとしてみても、記憶の中の自分はまるで他人だった。他人の過去と自分の現在が不自然に接続しているようだ。しかし彼はその境界線を探そうともしなかった。ただ、次に彼女と話すときには、うさぎがどうやってあんなに巨大になったのか教えてもらおうと考えた。
 日が落ちたあとに彼はもう一台ラジオを組み立て、その鼻のスイッチを押した。ずいぶん古いポップ・ソングが流れ出す。彼はうさぎの丸い瞳に指先を当てて回した。耳のスピーカーからノイズがあふれてくる。彼の指先にある目玉は周波数を合わせるダイヤルで、もう片方は音量を調節するダイヤルだ。ダイヤルが小さすぎて調整しづらいが、彼はゆっくり回していく。ノイズの合間にいくつかの声が聞こえる。だが彼女の声は聞こえない。周波数が最も低いところから最も高いところまで注意深く回していったが、やはり聞こえない。おかしいな、と彼は思った。その前に作ったラジオで試してみたが、やはり同じだった。さらにその前も、今日の一台めも。おかしい。彼は目が回るような気がした。
 昨晩彼女の声を聞いたラジオをつけてみると、ようやく彼女の声が聞こえてきた。