ラジオ 第八話「オセロ」

第7期(2013年2月-3月)

 コーヒーを飲みましょう、ぶたさん。

 彼女は頬に笑みをたたえながら彼の横を通り抜けた。ぶたって、なんのことだ。彼は少し驚いて、彼女を目で追った。視線の先で彼女は軽く跳ね、階段の前に立ち止まった。彼を見て、少しだけ首をかしげてみせた。
 彼は息をついて彼女を追った。今日の放送はどんな話だったのか聞いてみようと考えた。
 食堂の丸テーブルで彼と彼女は向かいあい、それぞれのコーヒーカップに口をつけた。彼女はカップを置き、明日は湖を見にいきたいな、と言った。湖でボートに乗りたい、と。
 彼はゆっくりと口を開いた。今日はそんな話だったの。そして心の内で、部屋に残してきたラジオの群れの代わりに問うのだと考えた。
 大丈夫よ。彼女は言う。でもまだ風が冷たいかな。
 大丈夫って、なに。そう言って彼は少しせき込んだ。コーヒーにむせたのだ。
 よかった。そうだ、対岸のカフェにも行ってみたいな。にんじんのタルトがおいしいんだって。
 突然、どうしたの。彼は言う。カップを受け皿に置くと、磁器が触れあって小ばかにしたような音を立てた。彼は彼女がふざけているのだと思ったが、どんぐりのケーキもあるみたいよ、と言ってほほえむ彼女の表情にはそれ以外の意図が感じられない。彼は彼女の顔を凝視した。こちらの言葉を聞いていないのか、聞こえていないのか。いや、なにを聞いているのか、だ。
 それは楽しみだな、と彼は答えてみた。ぶひ、ぶひ、とも言ってみた。
 彼女は静かに笑って彼を見ている。なんなのだ、と彼は思った。軽やかな水の音を立ててオールを漕ぐ彼を、彼女が見ている。彼はオールを止め、遠くの山に目をやった。ここはどこだ。彼女は何者だ。

 ほら、水面に雲が映っている。

 彼女が水面を指さす。彼は彼女の示すあたりを見て、いったいどこに来たのだと思った。彼女と彼の乗っているボートは湖のまん中に浮かんでいる。周囲二キロメートルほどのこの湖は、工場の裏のうさぎ小屋のさらに裏から林道を五分ばかり歩いた先にある。そんなことではないのだ。彼は少し空を見上げた。水面に映っているものと同じ形の雲が浮かんで、ゆっくりと流れている。日差しが明るく、暖かだ。
 昨日から、いったいどうしたの。彼は彼女に話しかけた。その通りに伝わることはないと知りながら、いや、知っているからこそ、言葉を続けた。
 ラジオのことを聞きたかったんだ。このあいだきみが忘れていったラジオをうっかりぼくが作ったものの中に混ぜてしまって、分からなくなったんだ。どうしても自分の作ったラジオできみの放送を聴きたくて、いろいろ試しているうちに。
 彼女は透き通るような笑顔を彼に見せた。

 本当、うれしい。

 夜、彼は自分の作ったラジオをつけてみた。そこから、とうとう彼女の声が聞こえてきた。
 明日は湖を見にいきたいな、それでね、ボートに乗ってみたいの。
 転覆したら、溺れちゃうんじゃないの。これは聞いたことのない男の声だ。
 大丈夫よ、でもまだ風が冷たいかな。彼女の声が言う。
 気温は上がるみたいだよ。そう言って男はせき払いをした。
 よかった。そうだ、対岸のカフェにも行ってみたいな。にんじんのタルトがおいしいんだって。
 悪くないね。コーヒーカップを受け皿に置く小さな音が聞こえた。
 どんぐりのケーキもあるみたいよ。
 それは楽しみだな。ぶひ、ぶひ。
 彼女の声が控えめに笑った。
 それから水の音が聞こえてきた。昼に湖で耳にしたオールを漕ぐ音とそっくりだ。
 ほら、水面に雲が映っている。
 本当だね。ところで、前からラジオを欲しがっていただろう。どんなのがいいか分からなかったけど、なんとなくよさそうなものを買ってきたんだ。これなんだけど、どうだろう。気に入ってもらえるかな。
 本当、うれしい。
 彼はうさぎの尻尾のアンテナを伸ばし、そう聞こえていたのかと思った。彼女は自分ではなく、彼女の聞いたせりふと会話をしていたのだ。彼はうさぎの鼻先を指で押し、ラジオのスイッチを切った。それから船底を撫でる波音を思い出した。まっ白な雲の複雑な輪郭、青く輝く空を横切る鳥の影、彼女の髪のにおいを思い出した。言葉が噛み合わないまま、彼と彼女は互いの体を抱きあったのだった。彼は彼女のストーリーを想像しようとしたが、その時には分からなかった。空を見ているうちに目の奥が痛くなったので目を閉じた。まぶたの内側に強い光が残っていて、まるで空に浮かんでいるようだった。悪くないと思ったが、彼女の肩が震えている理由は分からなかった。どうせ言葉は噛み合わないのだから、なにも言わなかった。
 彼はうさぎの尻尾のアンテナを縮め、ラジオを手に持ったままベッドに体を投げ出した。そうして、あんな状況でもそれはそれで悪くなかったのだと考えた。結局一人なのだ。言葉が通じようが通じまいが、どこまでいっても互いに一人だということは変わらないのだ。腕を上げてラジオを掲げてみた。うさぎは無表情なまま彼を見下ろした。
 あなたの工場で、と言ったか。あなたのラジオを、作れと言ったか。あの二人の燕尾服の男は確かにそう言った。つまりここがそれで、これがそれなのか。自分以外にラジオを作っている人間を見かけないこと、昨夜建物を歩き回ったときに明かりのついている部屋がごく少数だったこと、二人の燕尾服がやけに丁重なこと、彼はそれらに思い至った。

 森の外れに美術館があるんだって。

 食堂で目玉焼きをつつきながら彼女はそう言った。ここはどこなのだろう、という彼の言葉の代わりに彼女が聞いたせりふに対する返事だ。
 彼女と話すとき、彼はほとんどの場合において彼女のストーリーに沿って正しいせりふを推察しながら会話するように気をつけた。しかし、時折、どうせ別のせりふに置き換わるのだと思い、抱いている疑問をそのまま口に出しもした。もちろん彼女の応答は彼の質問とは無関係だった。
 きみのラジオにはなにか特別な仕掛けがあったのだろうか、と彼が言うと、彼女は、砂漠はもういやなのです、あんなところに戻るなんて考えるだけでぞっとします、と返した。
 どうしてここの人たちはぼくを選んだんだろう、と彼が言うと、彼女は、星がきれいね、と返した。
 そのたびに、それも悪くないと彼は思った。
 別の日には、きみはだれ、と彼は言った。すると彼女はオセロをしようと言うのだった。彼女と彼は食堂でコーヒーを飲みながらオセロを始めた。彼はこのゲームが得意だった。一方彼女はへただった。彼はあとで白く塗り返せる手を確保しながら、まずは彼女の黒に領地を譲っていった。そうしてアメーバのように拡大する黒を眺めながら、ぼんやりと居心地のよさに浸るのだった。
 ここは彼女の語るどこか遠い土地だ。ここには清浄な空気と光と彼女のほほえみがあって、彼女のストーリーに従っているかぎり、その一部でいられる。目と耳をふさいだまま、切り離された世界の一部でいられる。ずっと望んでいたのはこういうことだったのか。悪くないはずだ。ここでは望むものが与えられるのだろう。どうしてこんな幸運にありつけたのかは分からないけれど、きっと、それがここでいうあなたの工場なのだ。

(最終話へ続く)