アパートメント 第五話―雨

第8期(2013年4月-5月)

 この人はなぜ東京にいるのだろう。
 それが初めて出会った時の印象だった。

 今日と同じような雨の渋谷、ハチ公向かいのスタバ前。直前になって約束をすっぽかされた僕は、スクランブル交差点を行き交う傘の群れを眺めていた。しばらくしてふと隣を見たら、彼女もまたひとりで立っていた。僕がそこに来るより早くから、誰を待つともなくずっと交差点を見ている。 
 今からおよそ2年前のこと。それをナンパと分類して良いのなら、きっと僕の唯一の経験だろう。
 
 「よく降るね」
 駅前ビル3階のカフェ。窓際の席から交差点を見下ろし、カモミールティーを口にしながら、初めて会ったあの日と同じように彼女は言う。
 
 「最近、どう?」
 「相変わらずの暮らしだよ」
 「そっか」
 「あなたは?」
 「まだ帰ってきて間もないから、ちょっとした、移行期。でも、そろそろだよ」

 5歳年上の彼女は、都心のはずれ、小さなアパートに息を潜めるようにして暮らしていた。女性らしいインテリアなどひとつもなく、窓際で育つスプラウトの緑だけがその部屋に色彩をもたらしていた。肌は透けるほど白く、か細い身体をしばしば咳でしならせた。そのくせ、よく働く人だった。
 月に一度か二度、夜勤明けの彼女を駅まで迎えにゆき、彼女のアパートでバタートーストを半切れずつ食べ、そのままベッドで隣になって眠る。目覚めた彼女は夢の中、首輪や柵や鳥籠や靴紐…生命を大地に留めるものがおおよそ何一つない世界の話をした。僕はそれに技巧の無い言葉で応え、時折思い出したように肌を重ねた。
 二人が出逢って一緒になることは、きっと書かれていたことのように当然なのだと信じ切っていた。休みの日、たまには贅沢しようと外へ誘い出し、月並みのフレンチレストランで月並みのプレゼントを渡し、スプラウトの無い部屋に泊まったのが、ある暑い夏の日のこと。翌朝彼女が口を開き、それから4時間後には僕たちは別々の電車に乗っていた。
 
 「何ヶ月ぶりだっけ」
 「分かんない」
 「最後に会ってから、また一つ歳をとった」
 「おめでとう」

 「来月には新しい仕事も決まって、生活も収入もちょっとは安定してくると思うんだ。そしたらさ…」
 「そういう話、やめましょう」
 切りだす前に、彼女が話題を制した。改まった話をする前には空虚な世間話しかできなくなる僕の不器用さを、彼女はよく知っていた。

 「あれから考えたんだ。ちょっとは成長もしたと思う」
 制止に構わずに、用意していた言葉を口に出す。
 「もちろん、まだちょっと頼りないかもしれない。だけどこれから」
 「違う、そうじゃない」
 
 「そういうことに、不満があったわけじゃないのよ」
 彼女はそう言って、少し窓の外を見た。 

 「私が悲しかったのはね、私のことを知れば知るほど、あなたの表情に陰りが増えていったこと。昔のヒトと自分を比べたり、年齢やお金のことで気後れする必要なんてなかったのに。身体の病気のこととか、幸せな結婚とか家庭とか、そんなので焦ってくれなくてよかったのに」
 「一緒に生きてくのなら、少しでも幸せな未来を望むのは当然じゃないか」
 「未来に希望を託すほど、私、不幸じゃなかった」
 
 「出逢って間もない頃のこと、今もよく覚えてる。ろくでもない私の部屋を見ても、昔のヒトや家族の話をしても、あなた、バカにもせず、同情も慰めもせず、ただ、うんうんって聞いてくれたでしょ。私、あれだけでもう、救われてたのよ。ああ、生きてていいんだって」
 「そんなのただ、僕の中が空っぽで、言葉も何もなかっただけのことだよ」
 「ううん、違う。言葉が巧ければ良いってものじゃない。あなたの音と体温、私にはちゃんと届いてた」 

 「もうひとつ悲しかったのはね。そうやって一人で焦って悩んで、あなたが私を見る目がどんどん曇っていってしまったこと。素朴に笑うあなたの光に当てられて、私の内側から新芽が育っていってたの、気づいてた?あなたと出逢ってから、私の咳の回数が減っていったの、気づいてた?」
 「私、変わってたのよ。どんどん呼吸が出来るようになった。それはあなたのおかげなのよ。だのに最後の方のあなた、私の背後ばかり見てた。過去から絵の具を引き伸ばして描く未来なんて望んでなかったのに」
 返事を返せないまま、空っぽのコーヒーカップに目をやり、グラスの水を手にとって口に含んだ。
 
 「ごめんね今更。でも、寂しかったとか、我が儘を言いたいわけじゃないの。ただ、あなたが自分を認めてあげられないでいるのが、辛かった。それが私と一緒にいることで助長されるなら、やっぱり一緒にいるべきじゃないと思った」
 

 「あなたはやさしい人だけど」
 そう言って僕を見据えた彼女の瞳には、僕の記憶にない光が宿っていた。
 「ちゃんと自分を生きて。地に足をつけて歩くの。私はもう、大丈夫だから」
 

  
 外に出るともう雨は止んでいて、そのことを受け止めるより早く、彼女はいなくなっていた。

 
 彼女はなぜ東京にいたのだろう。
 雨の渋谷が見せた幻だったのだろうか。 
 いや、そうじゃない。

 僕たち二人の出逢いは確かに書かれていたことで、ただその先のシナリオは、それぞれちょっと違うものを持っていたんだ。それをお互い突き合わせて見せれば良かったのに。