アパートメント 第二話―モーニング

第8期(2013年4月-5月)

「おかえり!」
 扉を開けると、マスターは決まって僕をおかえりで迎える。
 夢も見ずに10時まで寝続けて、目覚めてもまだ頭に蜘蛛の巣がかかったまま。冷蔵庫を開ければ中身は空っぽ。どうしようかな、コンビニでパンでも買うかと考えたとき、ふとマスターの出すモーニング―あっさりふんわりのバタートースト、サラダとバナナ、それから深煎りのブレンドが思い出され、そのまま電車を2本乗り継ぎ、50分かけて東京の東側へ。お店に着いたのは11時。ずいぶん遅い、モーニング。

 「こんなに早くよく来てくれたね。引越しなんかで疲れてるでしょ。ゆっくりしてってよ」
 「今朝起きたら、なんだか急に来たくなっちゃって。身体はもう十分休まったんですけど、お腹ペコペコです」
 「すぐ作るからちょっと待っててね」

 銀色のドリップポットの細い首から注がれるお湯が、珈琲豆を躍らせる。フィルタを越えて、一滴一滴溜まっていく様子を見つめるのは、いつになったって飽きない。それが自分のために注がれたものだと思うと、ますます嬉しい。だけど一番好きなのは、マスターが洗い終わったカップを布巾で拭いていくのを眺めている時。みんな、もといた場所へとちゃんと戻ってく。
 
 国道沿いに位置するお店の表面は、一面大きなガラス窓になっていて、店内には白い光が差し込んでくる。お昼前後になると、テーブル席に地元のデザイナーさんやライターさんがちらほらとやって来て、食事のついでにテーブル席でそのまま仕事をしていく。つられて僕もそっちへ移動し、ノートパソコンを開いてお店の無線に繋ぐ。ご挨拶に行かなきゃならない人たちにメールを送って、それから、気になっていたところいくつかへ、求人の問い合わせやら面接の申し込みをした。いつまでものんびりしてられないもんなぁ。借りたものは返さなくちゃなんないし、これまでいただいた時間に見合うぐらいは、そろそろ社会に還元してかなきゃ。

 「相変わらずがんばるね」
 そう言って差し出されたのは、ここの名物のレアチーズ。黒地のお皿に、真っ白こんもりドーム型。贅沢にかかったクランベリーソース。
 「これ、サービス」
 「わぁ、ありがとうございます!いただきます」
 フォークで側面をくずして口に運ぶ。
 「はぁ、美味しい…」
 カウンターに戻ったマスター、こっち見て微笑んでる。

 3時になって、お店を出た。近くのリサイクルショップで自転車を買って、そのままそれに乗って帰ることにした。変速ギアも何もない、8,800円のママチャリ。隅田川を渡り、浅草を過ぎて上野まで。駅の入口を見やると、靴磨きのおっちゃんが変わらずそこに座っていた。
 冬の日、先輩の結婚式に出席する朝、一度だけ磨いてもらったことがある。おっちゃんが僕の革靴にブラシをかけて、クリームを塗っている間、ぼんやりと街を眺めていた。両のてのひらで貝をつくって耳に当てて、ざわめきを反響させる。海より街の音が好き。
 「にいちゃん、何やってんだ?」
 右足終えて、次、左足だと僕を見上げたおっちゃんに、訝しげな顔をされて少し赤面したのをよく覚えている。

 不忍池をぐるりと一周し、裏門から大学の構内へ。
結局一度も入ることの無かった講堂を横切り、銀杏並木をくぐって正門を出た。少し引き返して春日通りに入り、そのままずーっと坂道を、西へ北へと登っていく。
 
 帰りに近所のスーパーに寄って食材を買う。野菜売り場はもうすっかり春の顔ぶれ。新じゃがに新たまねぎ、春キャベツに菜の花、それからアスパラガス。
 家に着いたのは午後5時頃。スーパーの買い物袋をキッチンのテーブルに置いて、コップ一杯の水道水で喉を潤す。お米を研いで炊飯器にかけてから、新じゃがを洗って皮を剥く。油でしばらく素揚げしたあと、鍋に移して煮込み始める。コンロがひとつ空いたので、菜の花をさっと茹で上げ、水で冷やしてだし汁に浸す。煮汁がじゃがいもに染み渡ったところでおろししょうがを入れ、弱火でじっくりコトコトと。あとは、アスパラベーコンでも作って食べようか。その前に、おかずをあと1,2品作り置きしておけば明日以降が楽だな。それから…
 そこでハッとして、手を止めた。明日の予定、時間の節約、今の自分のどこにそんなことを気にする理由があるというのだろう。冷蔵・冷凍して、毎食ちょっとずつ小分けにして食べる、洗い物や調理の回数は極力減らす、同じメニューが続いてもお腹が膨れればそれで良い、そんな食生活をする必要がどこにあるというのだろう。

 「相変わらずがんばるね」
 マスターがそう声かけたときの僕、どんな顔してパソコンのキーを叩いていたのかな。間違いなくしかめっ面。思い返すと滑稽で、少し笑った。

 流し台を離れて、冷蔵庫にもたれかかる。ほんの少し開きっぱなしだった扉をお尻で閉める。頭蓋骨越しに響くブーンといううなり声を聞きながら見上げる、天井の蛍光灯。そのまま視覚と聴覚以外忘れてゆきそうなところで、鍋からキッチンに漂うしょうがの香りに引き戻された。コンロの火を止めて、赤茶色に照った新じゃがをひとつ、菜箸でつまんで口に入れる。

 「おいしい」

 まだほのかに湯気が立っている鍋に蓋をして、タッパーと一緒に抱えて玄関へ。