ヨンシー・ビルギッソンのための -前編-

第10期(2013年8月-9月)

目玉焼きを見つめることができなくなった。

今朝夢の中で私は死んだ。私の場合夢は登場人物でさえもすっかり忘れてしまうかもしくはせりふ一つひとつまで鮮明に覚えているかのどちらかで、今回は後者だった。その夢は私がキッチンに立つところから始まる。熱くしたフライパンにたっぷりしたたまごを二つ落として、ふたをして目玉焼きを作る、はずだった。ふたを開けると、そこにあるのはカミソリだった。料理をする夢はいつもこうだ。作り始めに頭に描いた料理ができたためしがない。リビングにいた恋人はそのカミソリを持って——。この先は少々ぞっとするのでやめておこう。そうそう私は昨晩、『アンダルシアの犬』を三周観たのだった。
夢の内容が内容だったので、とても気分が悪い。休日くらい、目覚ましも鳴らさずに気持ちよく目覚めたいものだ。空調をつけたまま寝てしまったせいか、乾燥して少し喉がいたい。身体を起こしたはいいものの、まぶた同士がいつもに増して仲良しでくっついてしまいそうだった。

少し灰色がかったカーテンは朝のぱきっとした光に歓迎されて、たいそうご機嫌な恰好をしていた。そいつを左右にがばっとあけて、部屋の中に新しい光を入れる。すると空気中のごくごく小さい埃が光って見えた。これこれ! この瞬間がたまらなく好きなのだ。
ベランダに出て、ジッポをころんとならす。ちょうど裏庭の掃き掃除をしていた大家さんに挨拶をする。振り返って「あらおはよう」と静かに言った大家さんはまたこちらにお尻を向けて、たくさんある植木鉢をこうでもないああでもないと呟きながら、何度も置き直していた。どうやらそれぞれの定位置があるらしい。私の住むアパートメントは、不思議なひとが多い。不思議なだけで、決して嫌なひとたちではないのだけれど。隣の部屋からは、休日の午前中に決まって落語が聞こえてくる。

歯を磨くときに歯ブラシに付けるチューブのことを、私は歯磨き粉と呼ぶ。というかだいたいのひとがそう呼ぶと思う。だけど従兄弟は、それをハミガキって呼ぶのだ。私はどうしてもそれが認められない。ハミガキは歯を磨く行為を表しているのだから。それをカタカナでそれっぽく呼ぶなんてずるいと思う。だけどよく考えてみたら、歯磨き粉、といっても粉じゃないことに気づく。昔は粉だったの? やいやい! ここで調べたら負けだ! 高らかに言いたい! 歯磨き粉!
まぁこの話はともかくとして、歯磨き粉を大量に付けるのはあまり好きではない。本当に少しでいい。コマーシャルを観ていると、「そんなに出すなよぉ〜」と画面に映る忽那汐里に向かって呟いてしまう。キッチンに寄りかかり、奥歯に歯ブラシがあたる快感を楽しみながら、反対の手は電子レンジのつまみを持っている。右に少しひねっては一気に左へ、それを繰り返すのだ。私はこういう地味な作業が好きで、どうにもやめられない。何度もなんども、安っぽい気の抜けた音がした。

今日はたしか日曜日で、特に予定がない。長期休暇の間は、曜日の感覚がほとんどなくなる。こういう日はだいたい、部屋にこもって映画を観るか、喫茶店に入り浸るかの二択である。すこし悩んで、珈琲を飲む方を選んだ。私は喫茶店のほかで珈琲を飲むことはまずない。
本棚を眺めて、一冊手に取る。『アーモンド入りチョコレートのワルツ』を選んで、手提げにそっと忍ばせた。この本は短編集で、全編ピアノが関係しているのだけれど、何が好きかって訊かれたら、迷わずタイトルって答える。正直なところ内容はあんまりよくわからない。でも好きだから、何回も繰り返し読んでいるのだ。「よくわからない」ところが好きなのかもしれない。
そうそう最近、ゼミのプレゼンで『電子書籍の時代は本当に来るのか』っていう本を扱ったのだけど。どんなに電子書籍化が進んだって、私は紙の本がいい。本棚にきりっと並んだ本たちを眺めたときの満足感と、ページをめくるあの快感、そしていつもバッグにお気に入りの一冊が入っている安心感。かさばったっていいのだ。あれらがなくなるなんて、そんな悲しいことはない。
ぼろぼろになるまで読み倒したいし、うすい茶色がたくさん並んでいるのがそれはもう悔しいくらいに好きだから、文庫本のカバーは必ず外すことに決めている。アメリカから来た留学生が、「日本人はみんなブックカバー——それも書店で購入時につけてもらう薄っぺらい紙の——付けてて、みんなポルノ小説でも読んでいるの?」と言ってた。確かに、たしかに。でもねー私、あなたにひとつだけ言いたい。日本の官能小説はとても美しいよ。日本語って本当に美しい。とんでもなく! I am a cat.なんて訳しちゃったら、漱石の顔すら浮かばないってわけ。まぁこれは恩師からの受け入りなんだけど。

支度を終えて外へ出た。空はだいたい水色で、ジッと強烈な日差しの中で柔らかく吹く風は私を全方向から歓迎している。お昼を過ぎた井の頭線。電車での移動中はシガー・ロスをよく聴く。ヨンシーのファルセットがたまらなく気持ち良いのだ。家もアスファルトもヤンキーのポンパドールな前髪も、全部全部ぱきっとしている。夏の景色って最高よね。でもこれは空調の効いた室内から眺めているときのはなし。外に出るのは嫌だ。出るなら全身に冷えピタを纏いたい。

窓から入る日差しをいっぱいに浴びて、スマートホンの画面が白く反射している。

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