風と時間と

第10期(2013年8月-9月)

 

 土手にあがったとたん、暴風に吹き転がされそうになった。
 大きな川のそばに住んでいて、眺めがいいのでよく河原を散歩する。土手のうえにはサイクリングロードがあって、川岸ちかくの低い土地にはゴルフの練習場や野球に使える広場がある。川面にはよく水鳥の群れがいて、湾のほうから海鳥がはるばる遡上してくることもあり、日暮れにはコウモリの飛行が見られる。夜には、対岸にそびえるマンションの間に大きな月がのぼる。いつ来ても気持ちのいい場所だ。
 この日、台風の予報が出ていた。
 本体の到着は翌日のはずだったが、暴風圏のつま先はもうここまで届いている。地下鉄が到着するまえにホームへ轟々と押し寄せる突風のように、到来を告げる声が吹き荒れていた。
 さえぎるもののない河川敷を、雑草をぺったりと地面に踏み敷き、自動車ほどに感じられる速さでまるごとの大気が突進してくる。
 こちらは全身にその直撃を受け、バランスを崩して、二足歩行をしくじったロボットのようにぶざまな姿勢でよたよたとする。
 いつもと違う景色を期待して来てみたら、想像以上に身をおびやかす大自然の出迎えをうけて、好奇心に殺されることわざの猫そのものだった。
 飛ばされぬようあわてて腰をおとし、しばし呆然とあたりを眺める。

 百メートルほど先で川を横切る鉄橋のうえを、ちょうど電車が渡っていくのが見えた。
 いつもよりもはるかにゆっくりとした速度で進んでいく。
 風にあおられて横転しないための徐行運転なのだろうけれど、その遅さにはいままで覚えたことのない違和感があった。
 あまりにものろいので、見ているうちに、そこだけがスローモーションで再生された映像のように思えてくるのだ。川ぞいの大きくひらけた風景のなかで、その動きの不自然さはきわだっていた。
 景色のなかに人工の映像が接ぎ目もなく嵌め込まれているように感じられ、その印象がたちまち心のなかで実体をもちはじめる。
 電車だけでなく、周りの空気も、人工的に変えられた時間進行のフレームに閉じ込められて、ゆっくりと渦巻いているように思える。橋の上に載った鉄骨組みの屋根を境にして、その内側は時間の進み方が遅いのだ。暴風も、そこを吹き抜けるときだけはゆっくりになる。

 電車の近くまでカメラが寄っていくことがあったなら、スローモーションの車内でそれぞれの目的駅への到着を待つ人々の姿をみることができるだろう、と想像をめぐらせる。
 はじめは、誰もがただ静かに身動きせず座っている、あるいは、視線をどこかに据えたまま落ち着いて立っている、と思えたのが、本当はそれぞれに大きな動作のなかばにあることが、映像を見つめているうちに、ふとわかる。
 わずかに仰向けられた顔が、ドアの上にある電光表示をみるために、するどく向きを変えている途中なのだとわかる。映像のなかで、頬にかかった鼻の影が、首が回るにつれてすこしずつ形を変えていく。
 吊り輪に軽く引っ掛けられているように見えた指先は、ちょうど放され、開かれているところで、腕全体が下にむかって動きはじめている。ポケットの中で携帯電話がメール着信を知らせているのかもしれない。
 口を開いた鞄から、メモ帳をつまんだ手が静かにせり上がる。鈍化された時間のなかで、その動作は精密な工業装置のようにぶれがなく、等しい早さでまっすぐに動く。
 小さな光るものが、宙に浮いている。よく見ればそれは落ちていくところで、留め金のゆるんだイヤリングだとわかる。断崖を背にして高度を下げる気球のように、スーツの背中すれすれを下降していく。
 想像のなかで、車内にはまったく音がない。
 
 一方、上空を流れる雲はとても速かった。
 地上よりもさらに烈しい風にのって、長く引き伸ばされながら転げるように、灰色に重く濁った雲が進んでいく。
 それは、ほとんどコマ落としの映像だった。
 一日分の雲の流れをほんの数十秒に圧縮して再生したような速度で流れすぎていく雲と、鉄橋をゆっくりと渡る電車とが同じ視界のなかに共存するのは、現実からかなり遠いところにあるような眺めだった。

 雲のうえを、旅客機が飛んでいく。雲と同じ向きに進み、雲よりも遅かった。
 なにもない空だったら、その高さと遠さのせいで、旅客機はほとんど止まっているように見えただろう。それが、低空を進む雲にどんどん追い越されて見える。
 雲に意識を固定すれば、旅客機は後ろ向きにゆっくりと飛んでいることになる。
 機内の時間は逆転し、だれも気付かぬまま機は出発地へ向かっている。
 客室乗務員が手にもつ瓶のなかに、液体がそろそろと引き込まれていく。
 乗客の手の中でふたつに分かれていた機内食のパンが、ほぐれた白い生地の、雲のような輪郭をちりちりと引き寄せあってつながり、ひとつになる。
 ここには、ゆっくりと上昇するイヤリングがある。
 乗務員は客席に身をかがめている。その耳にむかって、しだいに遅くなりながら小さな装身具がのぼっていき、永久に届かないのではないかと思えたところで、ようやく金具が耳たぶにしがみつく。人工衛星がドッキングに成功したのを見るような、静かな感動がおとずれる。

 そういったことを、叩きつけられる空気の塊に目をすがめ、暴風にびゅうびゅうと鼓膜を鳴らされ、身をかがめた姿勢でそろそろと歩きながら、考えていた。
 眼前にひろがる風景のなかに、いくつもの違う時間の流れが混在しているように見える。
 大気のはげしい変動が目に見えないかたちで空間を切り裂き、それぞれの領域のあいだで本来は協調がとれていた時間の流れをばらばらにしてしまったのだと思い込んでみる。
 いまだに鉄橋を渡り終えていない電車の後ろを、新幹線が通り過ぎていく。ここには、通常の路線と東海道新幹線の鉄橋が並んで架けられている。
 新幹線のほうはいつもと同じ速さで、あっというまに鉄橋を渡り終え、カタカタと速い独特の走行音だけを残して視界から消える。これはこれで、別な時間のなかを進んでいると見え、幻想が消えることはない。通り過ぎたあと、残された電車はまだ遅れた時間のなかに閉じ込められている。

 川べりのあたりを見下ろすと、初老の男性がひとり、犬をつれて、草のうえをゆっくりと歩いていた。
 風を受けて、その人の歩みは遅く、着ている服は激しくはためいていた。時間のずれを完全に受け入れたこちらの目には、人そのものと衣服とで時間の進み方が違っているように見える。
 そして、紐にひかれている犬は、またそれとは全く異なる時間の流れにいるように見えた。
 小さい体は風にのっていまにも離陸しそうだが、不思議なほどにしっかりと地面を踏みしめていた。その犬だけが、すべての波乱から切り離されて存在しているようだった。
 風が吹くほどに、空間がいっそうこまかく切り刻まれて、時間の断絶が撹拌されていくのを感じる。

 川を離れ、商店街まで歩いてきた。
 土手にくらべれば勢いの弱い風のなかで、もはや、あらゆるものに微妙な時間のずれを感じずにはいられない。
 長く尾をひく八百屋の呼び声が、ありえないほどに間延びして聞こえる。
 買い物客たちは、あまりにも一人ひとりの歩く速さが違いすぎるように見える。 
 ところどころに設置されたスピーカーから流れる音楽は、ここでは速すぎ、つぎの場所では遅すぎる。
 自分の時間が極端にずれていたらと思うと、どの店に入るのもちょっと怖いような気持ちになった。
 書店に入り、探していた一冊を見つけ、手に取る。開いたその本はたちまちページを黄ばませて、ぼろぼろに崩れていく。
 理容室の椅子にすわり、カットが半分ほど進んだところで、ハサミがとつぜん音をたてなくなる。理容師の世間話がテープの速度を落とすように間延びして、低くぼやけた声になり、そのままいつまでも響き続ける。
 買い物をすませて店をでると、通行人が全員うしろむきに歩いている。自転車だけが正しい向きで目の前を通り過ぎる。うしろの座席に座った子供は逆向きに動いていたような気がしてならない。
 ボールがひとつ、道の上で垂直に跳ね返る。
 その一瞬の観察だけでは、時間がどちらに進んでいるかはわからないものなのだ、と感じ入る。
 あとどれほどもしないうちに、細切れの空間はすべて元通りにつながり、時間のずれは吸収されてしまうだろうとわかっていた。
 さすがに飽きがきて、幻想を維持できなくなってきたのだった。

 商店街のはずれにある雑居ビルの階段をのぼっていくと、三階のひとフロアが、テナントの撤退で空になっていた。
 ガラス張りの扉をとおして、コンクリートのむき出しになった内装が見える。
 その中では、時間が完全に止まっていた。
 入ったら二度と出てこられないだろう。
 風の音はまったく聞こえない。見ているうちに、静かな震えとともに、周囲の世界で時間のずれが均されていくのを感じる。だが、目の前の空間はその再調整には加わらず、いつまでも静止している。そうであるべき理由を探して記憶をたぐってみるが、まったく思い当たるところはなく、ただこの場所が「止まっている」という確信だけがある。
 ぼんやりと眺めていると、外から激しい雨音が聞こえ、傘を忘れてきたことに気がついた。