終電車

第10期(2013年8月-9月)

 

終電車(1)

ぎゅうづめの最終列車のなかで、すべての乗客が、疲れきったあなたを運ぶための梱包材だった。
マッチ棒を立てて並べるのが不可能であるように、揺れる車内に立っていること自体があらゆる条理に反することと思えた。
まわりの客の足元をみると、みな爪先で立っている。
立っている、のではなく、靴の先はほんのわずかに床から離れ、乗客たちはみな宙に浮いている。
みんな、遊びの帰りなのだ。
これは自分だけに見える幻なのだろうか。長い仕事を終えて帰宅するところなのは本当にわたしだけなのだろうか。
あなたはさらに深い疲労のなかに沈みこんでいく。足が車両の床にどんどんめりこんでいくように感じる。
ぴんと伸ばした両手で吊革にしがみつき、全身が床の下に沈んでしまうのをどうにかくいとめる。
まわりをまた見回すと、乗客はみな目を閉じていた。宙に浮いているのではなく、天井から細い糸で吊られ、ゆらゆらと揺れながら眠っていた。
それに気付いたあなたは、なんとなく疲れを忘れてしまう。
終電が自分のかわりに眠っていてくれるような気持ちになる。
 

 
終電車(2)

列車はずっと川を渡り続けている。
夜に渡る鉄橋の景色があなたは大好きだ。黒い水面と、そこにうつる街の灯りの美しさ。
なんども川がやってくる。
鉄橋が終わり、ほんの数秒ほど街の中を走っただけで、また鉄橋の上になる。
あなたが最終電車に乗って離れつつあるのは、指紋のように、何十本もの運河がゆがんだ同心円をなす街なのだ。
そんな街であるように望んだことを、あなたはすでに忘れている。
運河と運河のあいだには、切り立った川岸からそびえるように小さな間取りの集合住宅が立ちならんでいる。すでに真夜中をすぎて、川面に浮かぶ部屋の灯りはほんのわずかだ。
あなたの住処もその中のどこかにあるが、列車はただ次々と川を渡っていく。川と川の間隔はしだいに狭くなり、川の幅はしだいに広くなる。
やがて、鉄橋に終わりがこなくなる。どこまでも広がる黒い水面の上を、橋桁にのった線路が果てしなくつづいていく。
あなたは、それをなにかの褒美のように感じながら、ドアにもたれている。

 
終電車(3)

車内には酒の強い匂いがこもり、いかにも週末の終電らしい賑わいだった。
乗客はみなラインストーンで飾られた仮面をつけ、この一週間にこなした冒険を開陳しあっている。商談の成功、システムの構築完了、厄介なクレームへの対応。
車両の床は、くるぶしあたりまでの深さで酒に満たされていて、みな裸足でそこに立っている。
列車がゆれるたび、だれかが足を踏み変えるたびに、酒にさざなみが立ち、あなたの頬に打ち当たる。
あなたは仰向けに寝そべって、全身を酒に浸している。きょうはしんどい一日だった。
ほろ酔いの誰かの足が、あなたの体を注意深くまたいでよける。あなたは口にふくんだ酒を飲み込むべきかどうか迷っている。
酒はすこしずつ嵩を増していた。そろそろどこかの駅に止まって、ドアを開いてくれてもいいとあなたは思う。
こういうときによくあることだが、酒の種類は判然とせず、酒という概念そのもののように透明で、香りも味も澄んでいる。
あとで振りかえればただの水だったように思える酒だ。あなたは大きく一口を飲みこんで、波立つ酒の中に沈んでいく。
 

 
終電車(4)

終電のなかで、終着駅までの五駅ほどの間だけは、あなたもヘッドホンからの音漏れを気にせずに音楽を聴くことができる。
ここまでくると、ほとんどいつも、あなた自身のほかには植物の乗客しかいなくなるからだ。
この五駅ばかりを進むあいだに、すっかりがら空きになった車内で、植物たちもまわりを気にせずどんどん育つ。
夜にだけ咲く花が色とりどりに開き、夜にだけ実る果物がつぎつぎにふくらんで、大きく裂けて芳香をはなつ。
あなたは、音楽をききながらそれをぼんやり眺める。
植物はどの駅でも降りず、列車は最後の駅には止まらず、走り続ける車両のなかで、あなたはどこまでも続く茂みの中を歩いていって、灯りの届かなくなったところにうずくまって眠る。
眠りのなかに、車輪がレールの継ぎ目を叩く音だけが届く。
 

 
終電車(5)

飛び乗った最終列車の車内で、あなたは今にも充電の切れそうなスマートフォンを酔いにおぼつかぬ指先であやつる。
終電から終電へ、飛び石のようにたどって、どうにか最寄駅までたどりつけそうな連絡経路を探している。
帰れなければ、都市に巣くう魔物に歴史を教えられてしまう。
知ってしまったら二度とこの街には戻ってこられない。歴史にはそういう力がある。
スマートフォンも、隙あらばあなたに歴史を教えようとする。
忘れがちなことだが、これもこの都市が遣わす魔物のひとつなのだ。
手の中で、路線図が古いものに置きかわっていく。駅が消え、木の成長を逆回しにみるように路線の枝葉が失せていく。
あなたは指先を打ちつけ、何度もすべらせ、路線を現代に引き戻そうとする。
地下を走る列車は、今どこにいるのかも定かではない。
車両が、きしみをあげて古くなる。
トンネルの先に歴史が大きな口をひらいて待ちかまえているのをあなたは感じとる。
 

 
終電車(6)

終電だけが空を飛ぶ。
車掌だけがそのことを知っている。
ある場所でそれを知らされて、あなたは終電にばかり乗るようになった。
車窓のむこうを流れていくのは、いつものとおりの風景だ。誰にも気づかれぬようにそう見せかけてある。
だが、座席の下にある点検口のちいさな穴を覗きこむと、車両の下にはぎらぎらと光る雲海がある。
この列車は、ほんとうは、地球のむこうがわで太陽に照らされて飛んでいるのだ。
運転手でさえこのことを知らされていないとは、とても信じられない。
同僚に対して大きな秘密を隠しとおすこと、同僚から重要な真実を隠されたままでいること。
なぜそれほどまでに過酷な職場なのだろうかと、あなたは思う。
それは、公共交通であること、インフラストラクチャーであることの宿命なのかもしれないとも思う。
だれも気付かぬままに、列車はふたたび地上にもどり、ドアが開く。
 

 

 
そうして、あなたはどうにか最寄りの駅にたどりついた。
家まではまだ少々の道のりがある、または、けっこうな距離を歩いていく必要がある。
そうだとしても、あなたの心には安堵がある。
あとはただ歩くだけでいい。
歩くだけでは簡単に行きつくことのできないような遠い遠い場所へ、毎日のように出かけているのが、とても凄いこと、とても恐ろしいことのように思えてくる。
けれど、今晩のところは、もう心配はない。
あわいの時間をとおりぬけ、また動かない地面を踏みしめることができた。
あなたは見慣れた街並みのなかを歩きだす。
風はすっかり冷たくなって、どこかで遅い風呂に入っているのか、シャンプーの香りがふとただよう。
あなたも、温かい湯船を心に描きながら足を早める。

 
いつかまたお会いしましょう。