山手線の雲

第10期(2013年8月-9月)

 

 氷柱の近くでなければ、ホームはとても暑い。
 傾いた日射しは屋根の下をくぐって反対側の黄色い線までとどき、正面からは熱風が吹きつける。
 色つきの氷で作られた花を中に封じた氷柱は、どちらかといえば見た目の涼しさをねらったものだろうが、近くに立ってみると、思っていたよりも涼しかった。すでにだいぶ融けて小さくなり、もうすぐ中の花に届きそうだ。

 緑色の列車がやってくる。
 銀の車体にそっけなく緑のラインをひいただけの車輛が長いあいだ使われていたが、いま走っているのは、さらに以前の時代を思わせる、全面が明るい緑の車体だ。
 ブラインドが下りているほうの席に、太陽を背にして座る。
 正午のころに乗っていたら、走っているあいだ車内の明るさはめまぐるしく変わっていただろう。線路の真上にならんで浮かぶ小さな雲に、日射しが断続的にさえぎられるからだ。
 夕方に近いいまも雲はおなじように浮かんでいて、座っている席から向かい側の窓をみると、通り過ぎる住宅群に、ぽつぽつと暗い場所があるのが見える。しらじらと輝く壁の連なりに、ふっと涼しげな影がおちる。
 携帯電話で地図をひらいて航空写真の表示に切り替えれば、点々と浮かんだ雲が、すこし虫に食われた門歯のような、この環状線のおなじみの輪郭をなぞっているのがわかるはずだ。
 本来、航空写真の撮影は雲のない日におこなわれるものだが、どれほど快晴でもこの雲だけは消えることがないので、残ってしまったのだろう。
 きょうも、線路の上に浮かぶほかには空には雲がひとつもない。都会の夏らしい、色のあせた青空がどこまでも広がっている。

 五歳くらいの女の子が、ドアにぴたりとはりついて、ガラスになにかをこすりつけているのに気がついた。
 真っ赤な金魚の絵を描いていた。
 手に持っているのは、それ自体が魚のような形をした合成樹脂の塊で、どうやらクレヨンのようなものらしく、こすりつけられたガラスの面で鮮やかに発色し、描線に漉された陽光が小さな指を赤く染めている。
 ぜんぶで五匹、どれも列車の進むほうに頭を向けた姿でていねいに描いてから、ポケットからべつの色をとりだして、水草のようなものを描き加えはじめた。
 電車を汚しちゃいけないよ、と声をかけるべきか、少し迷ったが、汚しているというよりはきれいな装飾をほどこしているようにしか見えず、そのままただ眺めていた。
 親の姿を探してみるが、席に座っている誰もがそうであるように見える。けれど、ほとんどが女の子には注意をはらっていない。
 ガラスの向こうを水平な緑の筋になって流れる景色が、ずんぐりした金魚たちには速すぎるせせらぎのようで、意に介さず泰然と泳ぐ姿がおかしくも頼もしかった。
 描きあげて満足したのか、まえぶれなく女の子は駆けだして、隣の車両へつづく通路に飛びこんだ。

 高層マンションがゆっくりと通りすぎていく。
 こちらを向いた壁の下方に、かじりとった歯形のように雲の影があった。
 影の輪郭はくっきりとして、そのコントラストがあまりにも鮮やかで、ひとつの建物に昼と夜が同居しているようにみえる。
 暗いほうの部屋の住人はみな熟睡していて、影が動き、明るかった部屋を覆っていくにつれて、起きていた住人たちもばたばたと倒れ、畳みかけの洗濯物のかたわらで寝息をたてはじめるのだろう。

 天井から吊られた広告をながめる。
 夢を見ずに眠っているときの海驢のようなリズムで、紙面がゆっくりと展開して立体になり、またゆっくりと平面に戻っていく。
 飛び出す絵本に似た、それよりももっと複雑なしかけで、斜め上から描かれた集合住宅のイラストから建物がたちあがり、その中庭や屋上に、葉の一枚一枚まで型抜きされた紙の樹木がひろがっていく。動きには、低速撮影された開花の様子や、サンゴに住む生物のしぐさを思わせるものがある。
 空調からの風に葉が揺れる。
 よくみると、枝のひとつがちぎり取られていた。誰かの本のしおりにでもなったのだろうか。

 雲は、昼間にだけ見ることができる。
 高層ビルの最上階が朝日に照らされるころにぽつぽつと出現しはじめて、ラッシュの時間にはすべてが揃う。
 日が暮れるころ、雲はすこしずつ姿を消して、夜にはみんななくなってしまう。
 最後のひとつがどの駅の近くに残るかで、賭けができるのではないかと思ったことがある。

 となりの車両へ続く通路に目をやる。
 扉は開いているが、列車はちょうどゆるやかなカーブを通っているところで、端の車輛までを一度に見通すことはできない。
 その列車の湾曲をなでるように、暗いものがいっきに通り過ぎた。
 線路の輪と影のつくる輪が交わるところを通ったのだ。
 雲の影がつくる輪は、この環状線とおなじ輪郭をもつ不規則な点線で、それが陽の傾きによって東のほうに大きくずれて、地表に投げ落とされている。
 ふたつの輪の重なる場所に、ちょうど雲の影があったのだろう。

 窓のむこうに、長く高いコンクリートの壁がやってくる。
 壁には一面に落書きがあって、これはおそらくこの都市でいちばん有名なパブリック・アートだ。
 なじみのある色と形の狂騒が目にとびこんできた。
 ここに果てしなく上書きされ続けているスプレー画の変遷を、十年にわたって記録しつづけた写真集が家にある。
 撮影を始めたときに写真家の頭にあったのは、木の年輪に大気の変化が印されるように、この絵になんらかの形で社会の変化が反映されていくのではないかということだった。
 ところが、実際にはそういう関連はみつけられなかったという。よほど無理な深読みをしてみても、描かれるモチーフやその変化の無秩序さにその説明がうまくなじんではくれなかった。
 写真集は、そんな落書きの変遷を、季節のうつりかわりや周囲の建物の変化とともに美しく記録している。
 電車に乗ってここを通りすぎるたびに、いまは見ることのできない、幾重にも層をなして塗り込められた絵を思いうかべる。
 あっというまに目の前を流れ過ぎていった絵のなかに、いままでに見たことのない要素があった。
 もうずいぶん長いあいだ、絵は写真集の最後のページにある写真と同じままだったのだ。
 そこに、虹でふちどりのされた大きな円が加わっていた。
 これから中に何かを描くつもりなのか、円はただあざやかに青一色で塗りつぶされていた。
 背後をなにが通り過ぎたか気づく気配もなく、金魚たちはしずかに窓を泳いでいる。

 向かいに座った乗客が、窓のブラインドを下ろした。
 列車が環状線をほぼ半周し、乗った時とは逆の向きに進んでいる。
 振り返って、また雲の影を探してみる。

 犬を連れた客が乗車する。
 大きな犬は金魚のいるドアの前に背を伸ばしてすわり、ちょうど金魚の高さに顔がきた。池を覗きこんでいるかのように、ガラスに犬の顔がうつる。
 飼い主はドアの脇によりかかり、リードを握っていないほうの手で文庫本を読んでいる。
 と、荷物の中から携帯電話をとりだして、小さな声で返事をした。
 携帯電話を犬の耳にあてる。犬は口を大きく開いて、舌を出す。飼い主もかがみこんで、一緒に電話からの声をきいている。
 最後にふたことみこと、飼い主が話し、通話はおわった。
 金魚のドアがひらいて、犬と飼い主はホームへでてゆく。
 ホームからは、食べ物の匂いが流れこむ。
 浴衣を着た一団が、みな串焼きのようなものを手に持って反対車線の電車を待っている。
 犬は一瞬そちらを見てから、足を速めて飼い主に追いついた。

 行き先の駅に列車がすべりこむ。
 かつては北国からの旅の終着点だったこの駅は、ホームに高い木がいくつも植えられている。
 木と木のあいだには針金が張りわたされ、たくさんの小さな提灯が吊られている。
 きょうの目的地でもある大きな公園が、この駅のなかにも入り込んできているかのような演出だ。
 すこし名残り惜しく感じながら、金魚のドアを抜けて、暑いホームへ出る。

 雲についての説明を、詳細はもう思い出せないが、どこかで読んだという記憶がある。
 この路線の電車から出る排気にだけ含まれる物質が、雲のもとになっている、というようなことだっただろうか。
 謎はすっかり明かされて、たぶん、ありふれた現象のひとつとして認識されているはずだ。
 でも、それではつまらないので、この雲のひとつひとつが、誰かの眠りの印なのだと思うことにしている。
 誰かが目を覚ますたびに、雲がひとつ消えるのだ。
 建物の壁が赤みを帯びはじめた今ぐらいからが、そういう人たちにとっての起床時間だ。

 数百はいるであろうその人たちには、日中はおおむね眠っているということのほかに、これといった共通点はない。
 目覚めると雲が消えるというほかに、特別な性質をもっているわけでもない。
 おそらく、自分と雲との関係には気づいていない。
 その人たちにとって雲がなんであるのか、そこはこちらもあえて詮索しない。
 とりあえず、そんなふうに考えている。

 今日はこれから、会ったことのない人に会う。
 その人もあの雲を消すことのできる一人であったとしたら、などと想像しながら、改札口をぬける。