あの日からの、カルチュラル・スタディーズ (5)

第13期(2014年2月-3月)

今年に入って3つの音楽にまつわるプロジェクトに係った。藤田陽介と、Open Reel Ensemble という二組のアーティストによる舞台公演のコーディネイト。西森千明というシンガーソングライターの近く発売となるアルバム「かけがえのない」に寄せたレビュー。Water Water Camelというバンドの新作「分室2」のデザイン(これは実際には、うちの妻が制作したのだが)。この係った3つのプロジェクトでは、それぞれに全く違った役割を担っていたわけだけれど、その間はずっと同じような事を考えていた。音と場所と記憶、それをずっと考えていた。今回と次回2回に分けて、その事を書いてみようと思う。

藤田陽介、彼は楽器の構造から夢想し自らの手で作り上げた、パイプオルガンを手繰りながら歌を唄っている。今ここで歌と言ったが、歌と聞いて多くの人がイメージするそれとは、およそ大きく違っているかもしれない。ホーミィ、ホーメイと呼ばれるような咽喉唄、循環呼吸をしながら声を断続的に出し続ける発声など、様々な特殊な歌い方を取り入れている。ただ、それは、奇抜であるというよりは、彼の音楽創作において必要に迫られてそのようなスタイルとなっている。

一方 Open Reel Ensemble は、オープンリールテープデッキと言われる旧式のテープ録音再生機を複数台使用してパフォーマンスを行う。音をその場で録音、再生、変調を繰り返して、楽器さながらに演奏する。録音された音は再生スピード(オープンリールの回転速度)を2倍に上げれば、その音程は1オクターブ高くなるし、再生スピードを半分に落とせば、1オクターブ低くなる。そのような音とテープ録音の特質を最大限に利用して、音をリアルタイムに重ねたり、時にはDJのようなスクラッチをしたりしながら、音を音楽として奏でている。

そんな二組のユニークなアーティストが共同で一つの作品を作り上げた。「未知ナル共同体」という題目で昨年の金沢公演を皮切りに、東京での2回、名古屋、大阪、広島と計6回の公演が行われた。そのうちの広島公演では、尾道市にある開基が大永5年(1525)と言われる浄泉寺が会場となった。

黄金の本堂をバックにセットが組まれ、住職の遊亀山真照氏によって一本ずつ蝋燭に火が灯され始まった公演は「未知ナル集合体」の最終公演にふさわしい、幻想的で荘厳な雰囲気に包まれていた。舞台は、藤田陽介が唄う印象的な旋律に導かれて幕が開いた。一つの旋律がすぐさまテープに録音され、繰り返し再生されていく。そこに新たな旋律が唄われ、それも録音、再生される。そうして、旋律は幾重にも重ねられていく。舞台の中央に座り、左手で小さく正確にリズムを取りながら、淡々と唄っている彼の姿は、経文を唱える僧侶か、グレゴリオ聖歌を歌う中世の修道士のようにも見えた。それは、その場所のせいで、そんな風に見えただけだったのだろうか。

舞台は長い残響で交錯する幾つかのシーンで構成されていた。藤田はパイプオルガンの他に、イタリア未来派の音楽家ルイジ・ルッソロが20世紀初頭に作った「イントナル・モーリ」という騒音楽器を復元制作している。その「イントナル・モーリ」対「オープンリール」という構図で即興演奏が繰り広げられ、空間がノイズの海に満たされたかと思えば、その中に微かな響きで、バッハのゴールドベルグ変奏曲が、とてもゆっくりとギターによって奏でられる。そのアリアの調べは、そこでも録音されていて、ギターの演奏が終わると、一気に巻き戻され変調され、再生される。聞こえてきたのは、バッハがチェンバロで演奏したゴールドベルグ変奏曲だった。テープの巻き戻しと共に僕らは時間を一気に230年も遡ってしまったのだ。

そこから古代ギリシア神話に登場する時間の神クロノスの話と、ブラームスの幻の交響曲第239番という、藤田自身が観た夢日記が二人の朗読によって交錯していく。神話と夢、半ば現世半ば異世界という物語によって、時間や空間の概念が溶解していくような感覚だ。そして混沌の世界から一つのリズムが確かに聴こえてくる。リズムに誘われて本堂の裏側で眠っていた数多の魂達も、現世の明るみで踊っていたのではないか。そして旋律はこの一大絵巻の冒頭へと帰結していく。演奏は一台のテープデッキで全て録音されていて、最後にテープは引き出されて、藤田自身が普段の畑仕事で使用している鎌によって細かく刈り取られた。その姿は、時とともに農の神でもあったクロノスに重ね合わされたのではないか。収穫された時間の欠片は、当日会場に集まった観客に一つずつ配られ、舞台は幕を閉じた。

何か彼らの舞台を観ていて、自分自身が過去から現在を通って未来までをも駆け巡る、音の波にでもなった感覚があった。その感覚は、その後も数日残響のように残っていた。

クラシック音楽の歴史を紐解けば、中世の教会で歌われた、グレゴリオ聖歌ぐらいまでは容易にたどる事が出来る。ローマカトリックが絶大な力を誇った時代には、教会で音楽が奏でられ、絶対王政の時代には宮殿で音楽が奏でられた。市民革命によって、市民が力を持てば音楽の奏でられる場所はサロンやカフェと、コンサートホールへと移っていった。いわば、僕らは、19世紀半ばに始まったロマン派を生んだ、膨れ上がった個人の欲望や喜びや悩み、そんな自我の幻の中で未だに音楽を聴こうとしてきたのではないか。

2011年の11月に創刊された「アルテス」という音楽誌の第一号の中で、音楽家の高橋悠治氏がこんな事を言っている。

「~前略~脱力。ほっとする。ここには権力もない。限られた場所だけど息がつける。そういう場所が少しずつ増えていけば、もうちょっと生きやすい。それはちょっとしたことで、誰でもそれなりにできるはずなんですよ。~中略~癒しは麻痺するだけ。これもよくいわれている言葉には違いないけど、癒されるのではなくて、何かに目覚めるわけですよ。いままでにはなかった何かを見つけるということ。そこから自分なりそれをどうやって維持していくかというのは自分なりのやり方でしょ。それは大きなことである必要はないんです。自分が生きやすくて、人と一緒になにかができる、人と繋がっていけるようなある空間なり時間なりを作っていくということでしかないんですよ。」

カフェもコンサートホールも、CDやレコードも最早過去の遺産だ。物もシステムもいずれは消耗する。主体というものがなくて、ある種の人の繋がりのなかで、時間を超えて開かれる空間がある。それを僕達は迷いながら探っていかなくちゃならない。

以降後編に続く。

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藤田陽介

Open Reel Ensemble

アルテス vol.1