あの日からの、カルチュラル・スタディーズ (6)

第13期(2014年2月-3月)

前回からの続き。

50年後の世界を想像してみる。僕は生きているだろうか。妻は生きているだろうか。100年後というよりは、まだ想像が及ぶ未来だろう。その50年後の未来に恐らくCDはない。レコードやCDの時代のように、自分で作った曲を演奏し録音して、それを販売する。そういう、所謂現在ミュージシャンと呼ばれているような職業の人達も、ほとんどは居なくなっているだろう。時代は変わった。しかも変化は加速度的に速くなっていく。

50年前、1964年の事を少し調べてみる。年間チャートを賑わしているのは、ビートルズ、ビーチボーイズ、ダイアナ・ロス&シュープリームス、ルイ・アームストロング。この顔ぶれを見るだけで、どれだけ音楽業界が華やかだったか分かる。いや、音楽だけではなくて、全ての産業は物を作りまくって、売りまくっていた。それが幸せだったはずの時代だ。そんな時代に比べれば、今の産業なんて、ほとんど潰えたと言っても言い過ぎではないだろう。皆、自分が生きているうちに時代が終わったと宣言したくないから、必死になって切り貼りをして、延命処置をしているだけだ。

3月11日の地震の後に、音楽評論家の高橋健太郎氏が、「エジソンは二つの大きな発明をした。一つは1877年の円柱シリンダー型の蓄音機の実用化、そしてもう一つは白熱電球の実用化。彼は電気会社を作った。それは後のGEだ。そこから原子力発電は世界的に広まっていった(福島第一原子力発電所の原子炉もGEが開発した沸騰水型原子炉に分類される)。蓄音機の方は言うに及ばず、レコード、カセットテープ、CDとなり音楽は一大産業となっていった。20世紀はエジソンが生んだ時代だったと言っていいかもしれない。しかし、21世紀も10年が過ぎ、音楽業界は衰退の一途を辿り、一方では原発が爆発した。エジソンから始まり、20世紀に膨れ上がった二つの巨大産業は、福島第一原子力発電所の爆発とともに、今や最後の時を迎えようとしている。」と、こんなような事を言っていた(記憶で書いているので、多少表現は違うかもしれない)。

その通りだろうと思う。「物」が圧倒的な価値を持った時代は終わった。これからはきっと「場」の重要性が見直されてくるのではないだろうか。エジソンが蓄音機を発明するまで、音楽は一つのコミュニティで共有されていた。いや、そもそもコミュニティとは、物理的に音の届く範囲内に居る人々という意味ではないか。実際に16世紀ごろまでヨーロッパでは、教会の鐘が響き渡る範囲を一つのコミュニティとしていたようだ。何もそこまで遡らなくても、音楽はカフェやサロンで楽しまれ、もしくは家庭で演奏されてきたのだ。ヘッドホンを付け、一人きりで音楽を聴くなんてのは、たかだかここ30年ぐらいの事でしかない。

音源制作の現場も変化が生まれてきている。ほんの十数年前までは、録音はレコーディングスタジオで行うものだった。スタジオ代、ミュージシャン代、エンジニア代、レコード制作には莫大なお金がかかり、それを回収するために、大規模な宣伝をして、沢山の商品を売ってきた。今は、音楽をする人で、パソコンが一台あれば全て一人きりで完結出来る。録音して、CDも作る必要なんて無い。データをYouTube なり、SoundCloudなりネットに上げて、twitter か Facebook で宣伝すれば良い。

最近よく、A Take Away Show というネット配信されている音楽番組を見ている。有名無名、国籍を問わず様々なミュージシャンが出演している。A Take Away Show の中で彼らはスタジオを飛び出し、街を歩きながら、アパートの中庭で、電車の中で、時には草原の真中で、音楽を奏でている。音を響かせ、場所とその場所に偶然居合わせた人達も巻き込んで、音楽を皆で楽しんでいる。音楽が商品になる前の、人々の日々の営みの中での根源的な姿が映されているように思う。

西森千明というシンガー・ソングライターが居る。近く発売される新しいアルバム「かけがえのない」という作品にレビューを書いた。ここに少しだけ引用する。

「 ~前略~ 発音体の動きも、空気の震えもやがて止まれば、音は消えていく。例えば、マジシャンが空中から白い鳩を取り出す様には、音を取り出して皆の目の前に見せてやる事は出来ない。音は消えていくのだ。

不思議なのは音楽だ。音とは本来どうしようもなく消えていくものだとしても、それらの音一つ一つを記憶の中で結び付ける事が出来る。たった一つの音が二つになり三つになり、旋律や和音となって重ねられ、そうして紡がれたものは、確かな感触を持って音楽としてこの世に定着する。音楽とは、聴く人たった一人の記憶の中で構築され再生される、儚く美しい芸術だ。 ~中略~

京都の田舎にある、廃校となった小学校の教室で録音されたというこの作品には、その場所の空気の震えが、とても豊かに収められている。かつてその場所で過ごした子供達の声、幾度と無く歌われた校歌までも、校舎の建物に深く刻まれていたのではないか。彼女がただ一人鳴らした音は、その場所の記憶までも呼び覚まし、とても壮大な合唱曲の様に響いている。~後略~ 」

音というのは、そもそも空気の振動で、音楽が個人の記憶の中だけで再生される物だとして、CDのように録音した音を複製するという行為は、とても大きな矛盾を含んでいる。ヴァルター・ベンヤミンが、古代ギリシア人は鋳造と刻印以外に複製技術を持たなかった事を指摘している。大量に生産出来たのは硬貨だけで、他のものは全て一回限りの作品であったのだ。だからこそ芸術は永遠性を求めて物を作ったのだそうだ。

録音とは、儚く消えて行く事があらかじめ定められた音を、どうにかそれをこの世に留めておきたいと、永遠性を求めて最後の抵抗をした記録の為の術であって、商品を消費する為の複製の技術ではなかったはずだ。そもそもエジソンは、蓄音機を遺言を遺す為の機械としてこれを発明したのだ。時間と空間を越えて誰か他者と場を共有する。それは恐らく50年後の未来にも、音楽の存在する意味として信じられるのではないだろうか。

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A Take Away Show

西森千明

ベンヤミンの仕事2