Rapture 〜朧月夜

第15期(2014年6月-7月)

文鳥

ぼくが子供の頃、所謂上級国家公務員だった父と、その父の影にぴたっと寄り添う母、そして父の社会の中での安定した肩書きと地位に守られて綿雲の中にいるかの様にフンワリと心地良く、世の中の醜い場面を見ることなく守られたバブルの中で暮らしていた。当時の父には直属の部下が数多くいて、父の一声で皆が集まって来た。そしてその奥様達も母の元に慕って常に集って来る様な環境で、ぼくは世の中の仕組みがどうなっているのか、現実の世界がどんなものなのか、という事が全く分からなかった。父にはいつも付き添いの運転手がいたし、それが当たり前だと思っていた子供時代だった。

ある日突然に訪れた、父の自殺の報。全国のラジオやテレビのニュースで一斉に報じられ、週刊誌や新聞紙にまでその記事がのり、私達家族は文字通り一夜にして公衆の面前で否応無しに晒し者にされ、「社会的肩書き」を失った弱者という目に見えないステイグマの烙印を押されて、いつも守られて社会との接点がほとんどなかった母、高校生の兄、そしてまだ中学に上がったばかりのぼくの三人だけが薄暗い部屋の中に取り残された。面白いもので、一番醜く手痛いバッシングは血族、親族から来る、と言う事も学んだ。私達家族のそれまでの無邪気さを疎ましく妬ましく思っていた親戚達の事に、それまで全く気付かなかった未熟な私達家族。

この時、ぼくは13歳だった。そしてこの時からぼくの子供時代は終わりをつげ、いきなり”大人”にならざるをえなかった。緩衝地帯のない家族構成は辛いものだ。学校からうちに戻ると暗く雨戸を閉ざした部屋の奥に置かれた真新しい父の仏壇の前ですすり泣く母。ぼくに「子供らしくいつも無邪気で笑っていて欲しい」、と言った矢先に突然、「それじゃだめでしょ、本当に子供っぽいのだから」とぼくを叱る母。ぼくの仕草や表情、声の中に亡き父の面影を探して、夫としての役割もそこかしこに探し求める母。こういう状況の中で、ぼくには反抗期、と言える様な、自分の個をしっかりと確立して、母から独立して自分探しをする期間を与えられる事なく背中を乱暴に押される様に現実社会の中に放り込まれた。どの親にとっても子供の反抗期は大変な時期だろうけれども、反抗期のある事は本当に幸運な事なのだ。細胞分裂が未完、中途半端に終わってしまった様な、自分の持つ希望、欲求は他者から期待されたものなのか、自分が本当に希求しているものなのか、ということさへ分からなかったある時期までの自分の事を考えると、子供時代をしっかりと与えられ、その後に続く反抗期を受け止めてくれる確固とした信念を持った、こちらの理不尽な苛立つ気持ちを受け止めてくれる親や第三者がいる事はその後の子供の人生にとって決定的に大切な事だと思う。

母はぼくがゲイであることを勿論、察知していたに違いないのだけど、一心同体による”察する気持ち、または能力”を常に母から要求された環境の下ではあらゆる場面で、「分かってるわね。ゲイは恥ずかしい見下げた醜悪な行為。社会逸脱者の集まり。テレビで良くみるゲイの人達みたいに、厚化粧でいつもおちゃらけてて、正道を踏み外した人達のグループ。」という擦込みを常にされて、一番その場をうまく切り抜ける方法は「母の思い描く理想像を演じる事」だったから、社会に出る頃には人から見られる自分によってでしか自分を評価できない、安心出来ない、そんな生き方しか出来ない様になっていた。

だから30代の始めに自分でも知らぬうちに未知への第一歩を踏み出した彼との関係はぼくにとっては遅まきながらの生まれて初めての自分の個を確立するための反抗期だったのだ。

2004年は滑走路を飛び立つ前に互いのバラバラに散らばるエネルギーを少しづつシンクロさせて、エンジンをかけるための燃料を給油タンクにつぎ込む様な、時に摩擦を起こしつつも急速に油圧を上昇させ始めた、そんな時期だった。

それまでに感じた事のない欲求。それは「一つになりたい。〜to beome one」という歌謡曲とかに良く聞かれる陳腐な表現だけど本当にそう感じたのだった。
クリスマス休暇のためにいたマンハッタンから戻って来て成田空港からオフィスに直行する、という彼からのメールを読んで、喜びで小躍りする30代男性ここに一人。端から見たらさぞかし滑稽な光景だったに違いない。彼のオフィスの一階にあるタバコ可のファストレストランでタバコの煙に巻かれながらも、胸の中をグングンと膨張する幸福感を押さえきれず満面ニコニコしているのだから。暫く待つと霧雨の中、ゴールに飛び込む短距離走のランナーの様な前屈みの姿で、彼の視線がぼくの視線に素早く絡み付き、互いの笑顔を確認する。何を話すでもなく、そこからアメリカンクラブでちょっと一杯飲み、歩きながら彼のマンションの前にたどり着くまでの間、ブッシュのイラク政策の話しとかアメリカ経済の話しなどをして盛り上がる。マンション前の入り口で握手をして別れようとすると、さっとさらわれる様に両腕で抱きしめられ、その時はハグにしてはちょっとキツ過ぎるな、、、と思いつつ、その後あれは包容だったのだ、とまたまた一歩遅れて気付くのだけれども、あの時の高揚感は今までに感じた事のないものだった。

この時までは彼が結婚していて奥さんがいる、という事実は全く気にならなかった。これは多分、当時ぼくの中のどこかでゲイの関係は空気の様に実体がなくって現実味のないもの、と諦め的な部分があったからかもしれない。ゲイ同士の結婚、という話しは日本では聞いた事もなかったし、アメリカでもまだまだ論争中でlosing battle ~負け戦の様な風潮だった。そして勿論、ぼくの中でも、ゲイ、という概念に対してそれは単に肉体的な本能的な欲情なのか、それとも精神的にも肉体的にもストレートな男女の関係と同じ様な恋愛、そしてもっと確固たる発展性にもつながりえるものなのか皆目分からなかった、という側面もあったと思う。そして、ぼくの周囲にはまるっきりゲイ同士のカップル、ロールモデルが皆無だったから仕方のない事だったのかもしれない。

人間の愛、感情はユニバーサルなものだと思う。でも、ぼくは選んだ相手がアメリカ人であったのには理由があった様な気がする。ぼくは誰の目から見ても所謂、典型的な日本人。考え方も、物事の感じ方も、処世術も仕草も日本人そのもの。正座でいるのが一番楽だし、言葉遣いも敬語が一番しっくりとくる。だからもし、育った土壌も環境も、考え方も似た者同士だったとしたら、きっとここまでの情熱、自分の古い殻を知らぬ間に打ち破って脱ぎ捨てる様な事はしなかったのではないか、と思う。動的なダイナミックさに欠けたぼくの東京での生活と親の期待や自分の中に擦込まれた「男たるものこうあるべき」と言った社会の規範にがんじがらめにされて型にはめ込まれた様な自分から解き放たれるには、アメリカ人である彼のぼくとは違う側面が必要だったし、物理的にも精神的にも「日本の外」へつながる可能性、オープンさがなければ頑固な自分がもつ非常に日本人的な自己防衛本能を打ち破れなかったのではないだろうか、と思う。

溺れる、と言う言葉は泳げないで死にそうになることをいうけれども、ぼくが恋に落ちて溺れた、と感じたのは、やはり身も心も一つになったあの時からだと思う。その夜は周囲を取り巻く全てのものが優しく心地よく感じられ、日中の春の陽気に温められた生命の息吹達が静まり返った夜の帳が降りる頃、一斉に春の到来を祝うかの様な、そんな心躍る柔らかな宵だった。いつもの通り、会社帰りに夜道を歩きながら、その日にあった仕事上の出来事とか他愛ない事を話していたのだけど、どうも彼はいつもと違って言葉も少ない。そして彼のマンションの前にたどり着き、「またね」と言いかけた時、「うちに上がらないか?」と緊張した面持ちで彼が言う。

彼の後ろについて、畏まった制服を着た受付の男の視線を居心地悪く背中に感じながら黙って通り過ぎ、ガラス張りの透明なエレベーターに乗りこむ。階数を表示するエレベータの数字はぐんぐんと数を増し33階でやっとその数を止めた。彼のマンションの重いドアを開けた途端に臭う、それぞれの家庭で異なる部屋の臭い。ここは紛れもない、ぼくが足を踏み入れた事のない生活の空間、家庭の場なのだ。

彼がバーボンをグラスに注ぎ、しばらくすると、自分のお気に入りのCDをセットしてアースウインド&ファイアーやドナサマーなどの一連のデイスコ全盛だった70年代の曲がかかり、そこには音楽のグルーブに身を任せ、まるで水を得た魚の様に滑らかに、自分を解放するかの様に踊る彼の姿があった。バーボンのほろ酔い加減さも手伝って踊り慣れないぼくまでリビングフロアの真ん中で、まるで映画「グリース」の熱に浮かされたオリビアニュートンジョンとジョントラボルタの様に彼のリードに身を任せて押さえきれない楽しさに笑い声をたてながら、月明かりに照らされた薄暗い部屋の中をくるくると周りながら踊る。

音楽がマドンナの”Crazy for You”に変わり、その後、ホイットニーの”I Will Always Love You”へと続いた。
暗い窓の外にそびえ立つ美しくライトアップされた東京タワーを眺めていると、後ろから優しい包容とともに、心臓の鼓動の高まりを互いに感じあう。朧月夜の明かりに照らされて、ぼうっと霞んで行く意識の中で、生まれて初めて、自分の中の眠らされていた自我(id)が水を与えられて自分の居場所を見つけた様な、そんな満ち足りた幸福感に全身が包まれた。ぼくの人間性の復活祭の夜だった。〜