夢八夜 最終夜 こんな夢を見た!(或いは遙かなるおふとんジャーニー)

第19期(2015年2月-3月)

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こんな夢を見た。
       夏目漱石『夢十夜』

私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寐(ね)ていました。この手紙を書き終る今も亦ぐうぐう寐ています。私は偶然兄さんの寐ている時に書き出して、偶然兄さんの寐ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんがこの眠(ねむり)から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします。
       夏目漱石『行人』

夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう
       穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

  *

「こんな夢を見たかった」

そのようなひとりの夢見人として、これまで七つの短詩をめぐる七つの夢を見てきました。
わたしにとってそれらの夢は、その夢のかたちでしかありえないような七つの夢でした。

今回の最終夜において、いいたいことはたったひとつです。
これまでさまざまなゆめをめぐってきましたが、次のひとことをもってわたしはこの『夢八夜』を終わりにしたいとおもうのです。
このことば以外、ありえないとおもったのです。
ですから、最短の『夢八夜』になります。すなわち、

おやすみなさい。

いままで短詩から始まる七つのゆめにおつきあいくださいましてありがとうございました。
みなさんと夢を通してお会いすることができて、ほんとうに嬉しかったです。
すこし淡泊な気がしないでもないですが、いっしゅんで終わる夢だって、あります。夢のよさは、だれにも・なにも・どうなるかなんてわからないということです。だからこそ、夢にはいつでも可能性がある。

それではまたいつかのだれかのゆめでお会いしましょう。
こんどはあなたの夢にもおうかがいしようとおもいます。
ひとまずわたしの夢はこれでおしまいです。
ありがとうございました!

              (夢の終わり)

  *

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「こ、こんな夢を見たかったんだよ、おかあさん……」

どうも今晩は(或いはどうもおやすみなさい)。柳本々々です。
さて、ここからはですね、おやすみなさいとはいって終わらせたものの、でもまだ退場したくないんだ、あとがきを語りたいんだという語り手による〈長すぎるあとがき〉が始まります。
本篇は、うえで終わっていますので、ここからはすべてまだ帰りたくない、終わらせたくない、いっしょにいたい、失いたくない、という語り手の夢のようなエゴイズムによるあとがきになります。
ジョン・レノンからさえ、きみは夢見人だね、帰りなよ、と一笑に付されるかもしれませんが、もしよろしければ長すぎる蛇足としてもうすこしお付き合いください。
かつて、作家ルナールも蛇をみてこんなふうに語ったそうです。
「蛇、長すぎる」と。

はじめにお断りしておくと、さきほどもいいましたように、ここから先が今回はとりわけて長いんですね。長すぎるんで本篇は「おやすみなさい」のひとことで終わらせました。
でもそこから始まる最終夜のあとがきが、長い。
ねむるまえのあの奇妙なハイテンションのせいなのか、はりきりすぎてしまっていつにもまして、長い。
やぎもとあれ毎回長すぎるよスクロールさせすぎだよ指つかれちゃうよと毎回いわれていた『夢八夜』ですが、今回はとりわけてめっぽう長い。
ですから、ときどきトイレタイムも挟もうとおもっています。よろしくお願いいたします。

でも、夢に関してあらためて思いをめぐらせれば、こんなことをわたしは、ときどきおもうのです。
夢って、よくわからなさがあるところが夢なんじゃないかって。
なんの意味もなかったり、ただたんに無駄に長かったり、すべてを見終えてもなんの教訓もなかったり、果てしなく無駄なコンテンツばかりだったり、はちゃめちゃだったり、無駄にたのしかったり、かなしかったり、うなされたり、ほほえんでいたり。
そういうのが夢なのかなって。
だからですね、いまは「夢のあとがき」の最中なのですが、今回はどこで終わってくださってもかまいません。すべて読み切らなくても最後の一行までたどりつかなくても、かまいません。たとえ文章のとちゅうであっても終わりだとおもったら、そこが終わりです。ゆめ、みたいに。
とつぜん、ぶつんと切れる。覚める。それが夢なんじゃないかとおもうんですね。物語を最後まで見届けられず、失って、終わる。でもだからこそ、また今晩もわたしたちは夢をみるわけです。

ですから、今回の最終夜は、読み手であるあなたが「ここらへんで覚めようかな」と〈終わり〉を決めてください。
もういいかな、このへんかな、というところでお別れになります。
それが『夢八夜』のラストです。
もちろん、最後まで、語り手がねむるぎりぎりの臨界点までお付き合いくだされば、それはそれでとてもうれしくおもいます。
わたしはとりあえず、じぶんが寝落ちするまで、できるだけ長く語ってみたいと思います。
ほんとはですね、最終夜のこのあとがきを原稿用紙で100枚くらい書いて、その長さの過程のなかでどんどん読んでおられるみなさんが寝落ちして離脱していくといった感じの夢の風景が理想的なのかなとも思ったりしたのです。そして、さいごには語っていたはずのじぶんも寝落ちするみたいな展開がいちばんいいのかなとも。
たぶん、夢というのはそうした、映画を途中からとつぜん観ることになって、そうして、まだ途中なのにとうとつに幕をおろされてしまう感覚にも似ているのかなとおもうのです。
ですから、どこで終わっていただいてもかまいません。夢は繰り返しおなじ夢を観ることもあるのでまた何年かたってもういちど別のかたちで読んでくださるのだってうれしく思います。ずっとここにいますから。
ここはさいわい〈アパートメント〉なのです。

ですから、今回は、たとえば、不条理な、ありえないようなところでとつぜん終らせてみてください。
たぶん、それが、夢の〈正しい〉終わり方なのではないかとおもうんですよね。
そうなのです、夢の〈終わり〉の権利はいつも夢を〈見〉ているあなたにあるのです。

                  (終)

と、こんなふうに終わってくださってかまいません。
(終)はあなたのてのひらのなかにあります。最終夜なので。

閑話休題。

さて。上の絵ではじまりました、最終夜のあとがきです。
なにかひとがふるふるとふるえながら手を伸ばしていますよね。このひとの手かもしれないし、もしかしたらそうでないかもしれない。
でもこのひとはなにかに手を伸ばそうとしている。もしかしたら、失おうとしている最中なのかもしれません。
この絵のタイトルは、「こ、こんな夢を見たかったんだよ、おかあさん……」。
あえて英語でいえば、「アイ、ウォンテッド、トゥー、ハブ、サッチア、ドリーム、マンマ」というところでしょうか。
夢、ですから、手を伸ばしてもやはり届かないのでしょうか。
それでもひとは手を伸ばすのか? どこから?
おふとんから。

とても大事なことだったらしく、漱石が『夢十夜』のなかで何回も繰り返しいったことばに、「こんな夢を見た」ということばがあります。
このことば、実はスライドショーのことだったんじゃないのかなってちょっと思ったりもしてるんですよね。
なにしろ〈見た〉ですからね。〈見〉ないとだめなわけです。それはことばじゃない。
夏目漱石は『夢十夜』で夏目漱石のスライドショーをやっていたんじゃないかとおもうんです。

だからわたしも漱石にならって、これからのあとがきはスライドショー仕立てにしてみようとおもうのです。
今回はスライドでこれまでの七夜分の夢を振り返りながら進めていきたいという、そういう趣旨の回になります。

じゃあですね、一枚目のスライド、お願いします。

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第一夜ですね。マヨネーズのふたをみつけた話でしたよね。
このスライドをみるとわかるんですが、ゼロ・グラビティのさなかにみつけてしまったマヨネーズのふた。
実は第一夜は、ジョージー・クルーニーもびっくりの宇宙空間だったんですね。
ひとはどんな場所でもゆくことができる。もちろん、マヨネーズだって宇宙にむかうことさえ、できる。
これがこの話のコンセプトでした。
手を伸ばしても取れない無重力空間でくるくるするわたし。
よくベッドからリモコン取れそうで取れないときもこんなポーズしてたりしますね。
わたしは巨大な月を背にこんなふうにおもう。なぜこんなギャラクシーにマヨネーズのふたが!?
しかし、それはわからない。わからないけれど、この話のさいごにふいに訪れた〈気づき〉もありました。
わたしにも人生わからないことだらけですが、そのなかで夢のなかにさしこんだひかりのように〈わかる〉ことがあります。
それをあえて五文字でいいあらわせばこんな感じになります。
まよねーず。
さあ、次のスライドに参りましょう。

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みどりのひとと手をつないで森にいったりした第二夜ですね。
この非常口付近によくおられる方、ピクトさんとおっしゃる方のようなんですが、たぶんこのみどりの方の手はだんりょくがあるとおもうんですよね。
はじめて手をつなぐときってね、思い出してみてもらうとわかるんですが、とても緊張するものですよね。もう水芸みたいに緊張で手汗が出てきちゃったりしてね、どうしようって。わかったじゃあ次の電信柱で手をつなごうみたいに決意してね、また何本も何本も電信柱を見送るっていう。こんなにこの街、電信柱あったかなって、あらためて電信柱を考える時間になってしまっているという。手もつなげずに。まあそういうときが誰しもあると思うんですが、みどりのひとと手をつないだ場合、おやこれは弾力があるぞ、みたいなね。緊張なんかよりもそっちが気になっちゃうんじゃないかと思うんですよね。
みどりのひとの手はグーですよね。ドラえもんみたいな。だいたいこういうひとはじゃんけんでグーしか出せないだろうと思わせておいてとつぜんチョキをだしてくるみたいなSF的展開があったりしますよね。じゃんけんの思いがけないドラマが。
みどりのひと、こわいですからね。俺は走れるんだぞ! っていつも非常口の前で誇示されてるのもなんだかこわいですよね。猛ダッシュされてますからね。寄生獣よりみどりのひとがいまこわいです。
はい、次のスライド、お願いします。

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本屋でであった鮫と対話したりする第三夜でしたね。大スペクタクルの飛び出す映像でした。
立ち読みしてるときって本の中身よりも背後がむしろ気になったりするんですよね。
運命のひととか、旧友とか、あぶないひとが立ってたりするじゃないですか。立ち読みしてると。ふいに。
だからエアー立ち読みというか、誰かを後ろに立たせるために〈あえて〉立ち読みしてたりすることありますよね。
後ろの空間をあえて〈泳がせ〉ておくといえばいいんでしょうか(うまいこといおうとしてません)。
ちなみにときどき中腰で立ち読みしておられる方がいるんですが、あれはなんでしょう。なんだかこう突然実家に帰りたくなっちゃうような気弱な感じをかもしだしていますよね。
でも、中腰、だいすきなんです。
さあ、次に参りましょう。

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あぶないわたしにわたしじしんが注釈をくわえたりする第四夜をみたりしましたね。
あぶなかったですよねこの話。「これを読むときは部屋の中を明るくして離れて読んでください」って冒頭にテロップも出てましたよね。
こわかったですよね。どうなることかとおもっちゃいましたよね。
このスライドではパンダふりまわされちゃってますけどね。
でもなんか、このパンダ、ちょっとたのしそうですよね。
ふりまわされるってね、ちょっとね、くせになっちゃうことあるんですよね。
休日とかさんざんふりまわされてね、ある日ぱったり電話がかかってこなくなっちゃって、またあのふりまわされていた日々にかえりたいわ、っておもうことありますからね。
ちょっと泣いたりもしてね。マスカラがすこし落ちてパンダみたいになっちゃったりしてね(うまいこといおうとしてません)。
鏡をすこしみて、こんなじぶんもいいねなんておもって。
はい長くなってきたので次のスライドにいきましょう。

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ふわふわの棺のなかで暮らす第五夜でした。
Kさんはへんてこりんなひとでしたよね。Hさんもね。ちょっと富野由悠季さんのアニメにみられるような、「悲しいけどこれ戦争なのよね」的言葉遣いでしたよね。
棺といえばですね、わたし、昔、おとなになったらなにになりたいってきかれるとよくドラキュラって答えてたんですけど、たぶん、それ血が吸いたいからじゃなくて、マントが着たかったからだとおもうんですよ。
マントってなんか着てみたいじゃないですか。それもTシャツみたいにカジュアルにドラキュラみたいに着こなしたい。あと、棺のなかでねむりたかったっていうのもあったとおもいます。棺がベッドって、なんだかかっこいいですよね。
ドラキュラ的要素には、棺が大事だとおもうんですよね。ただドラキュラになってマントを着てても意味がないとおもうんです。
おふとんから突然マントを着たまま立ち上がってもドラキュラ感があんまり出ないと思うんですよね。おふとんだとむしろ庶民的になっちゃう。「ご飯よー」なんて階段下からいわれたりして。ご飯って、マント着てるのに、とかちょっと自分が情けなくなったりしてしまって。棺ないとやっぱだめだな、っておもって、近くのリサイクルセンターで中古の棺を買ってみたりもして。
それに、ドラキュラは伯爵なんですよね。ドラキュラ伯爵。伯爵はたぶんおふとんで寝ないだろうっていうのがありますよね。伯爵とおふとんって、どう組み合わせていいかわからないところが、ある。
はい話がそれてきたところでもう次のスライドの出てますね。ありがとうございます。はい、次です。

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闇シャンプーをみんなでさがす第六夜でした。
この回で歌を引用させていただいた飯田有子さんは「精神的おかっぱ」という言葉も発明されていてことばのマジシャンのようなところがあるんですよね。
この精神的おかっぱって大好きなことばで、ときどき「精神的おかっぱ」を「闇シャンプー」してる風景を想像していたりします(わたしはどこにゆくんだろう)。
精神的おかっぱっていいですよね。それは決しておかっぱではないんですよ。
わたしも昔前髪をじぶんで切るのを失敗して、〈しくじりおかっぱ〉になっていたことが一時期あるんですが、その失敗で精神をこじらせてしまっても〈うっかりおかっぱ〉にはなれても精神的おかっぱにはなれない。
おそらく精神的おかっぱっていうのはある精神のかたちなんですよね。精神がおかっぱってことですからね。
おかっぱのひとって思い出してみると、あたしはこうだぞ、って髪型から意気込みが感じられるじゃないですか。ある髪型の気迫が。髪型への決意が。
だから、精神の意気込みだとおもうんですよね。精神的おかっぱって。はい、長くなってきましたね。最終夜がおかっぱの話でおわっちゃいますので、つぎに参りましょう。

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第七夜では、西瓜糖の世界で西瓜糖のことばをもって、ゆめにならないうとうと対談をしたりしてオズ大王といっしょにイエローブリックロードをあるきました。
むかし『オズの魔法使い』の映画を観てたらですね、ドロシーが最後にカンザスに帰るときに、それまで一緒に旅をしてきたスケアクロウ(かかし)やブリキマンやライオンにお別れをいうんですが、ブリキマンやライオンにさよならの挨拶をしたあとに、スケアクロウにとつぜん何を思ったのか「あなたがいちばん好きだったわ」っていったんですよ。
そのことばをきいたわたしはおののいたんですよ。そのとき、スケアクロウの横にいたブリキマンやライオンはどんなきもちでそのことばを聞いたんだろうなっておもって。ショックうけたんじゃないかなって。
そこは「みんな大好きだったわ」っていわれたいじゃないですか。ブリキマンとライオンはたぶんショックを受けてたし、わたしも一緒にショックを受けていた感じだったと思うんですよね。こんな風景、たしかわたしの人生もあったよね、みたことあるよねっていう回想にさえ入ってましたから。
たぶん自分がオズの国の住人だったらわたしもブリキマンやライオンの立場にたたなきゃいけないひとなんだろうなと思うんです(だからオズ大王に会ったらわたしは〈ポジティヴ〉をもらおうと思ってるんですが)。
でもそれでもいいわけです。語り落とされる立場で生きなきゃならなくてもそれでもね、わたしにもある日とつぜんみつけたイエローブリックロードがあるんだろうから、そこを歩き続けるだけじゃないのかなっておもうんです。そしてオズさんはうとうとされつつもたぶんそんなことを教えてくれたと思うんですよね。はい、時間が押してますね。わたしはオズさんの俳句を読むたびに……はい、時間がおしてますね。
以上、七つのスライドでした。

こんなふうにですね、七つの句や歌をめぐる、七つのゆめを、見てきました。

夢は、巨大な水たまりのようなものです。
浅くて、深い。狭くて、広い。
夢の余波のあわいをサーフィンしながら、
飽くことなく、はてしなく、ゆめを蕩尽していくこと。
何万トンもの海のようなゆめのなかで。

そうなんだ、っていまにしてわたしは思うわけです。
わたしは、ずっと、うとうとしていたんだって。
いちども、ねむれずに、ねむらずに、いたのです。
きちんと、ゆめを語りとどけたかったから。
六日七晩起きて、ななつのゆめを語りつづけていた。

ゆめを語るって、へんなはなしだけれども、起きているって
ことなんですよ。

ひとは、ねむりながら、語ることも、読むこともできない。
語り直すことも、読み直すことも、できない。
その意味で、ゆめはいつも、ゆめでない場所にある。
覚醒された場所に、ある。

おかしなものです。

ゆめって、へんてこなんですよ。
なんとかしましょう、ゆめ。
と、おもうんですが、でもきょうが最終回なんです。

さいごのゆめに、なります。

実際、わたしも、もうずいぶんとうとうとしながら、
なかば片手片足をあたたかいゆめのなかへと
つっこみながら、これを書いているのです。

あたたかいんです。しびれちゃうくらいに。

ではここでちょっとトイレタイムです。ひと息いれるために、家のなかでとつぜんわけもなくしびれてしまい(そういうことありますよね?)、しびれちゃって動けないんだけど動けないままやることもなにもないから仕方なくすきなひとのことを考えているひとのスライドを見ていただこうと思います。トイレに行きたいかたはこの機会にどうぞ。

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はい。しびれちゃったひとのスライドでした。ありがとうございました。みなさんは、家でしびれてじっとしているとき、どんなことを考えられていますか?

さて。
わたしがここまできて、ちょっと気になっているのが、
うしなわれた二つの夜のゆめです。

漱石は『夢十夜』を書いたのに、わたしは『夢八夜』でした。
おいやぎもと、それでいいのかい、と地下に眠る、あるいは天上にふわふわ漂っている漱石からいわれそうです。ヘイユー、それでいいのかい、と。
でも、わたしは(地下の/天上の)漱石にむかってこんなふうにいってみたいのです。

たてがみを失ってからまた逢おう

わたしは、そんな句を知っているのです。
だいすきな句です。
じっさい、この句の作者の方にお会いしたこともあります。
わたしはその方のところに句集をもっていって、こう言いました。
わたしはこの「たてがみを失ってからまた逢おう」の句がだいすきなんです。
なんどもなんどもへこたれるたびに、つっぷすたびに、
いろんなものをうしなってゆくたびに、
この句をおもいだしていました。
この句はわたしにとってひとつのゆめなんです。
このゆめがあるからこそ、わたしはなんどでも
起きあがることができるんです。
もしよかったら、あなたの句集にあなたのこの句を直筆で書いていただけないでしょうか。おねがいします、と。

その方はすぐにさらさらと書いてくれました。
さいごに、「!」もつけて。
たてがみを失ってからまた逢おう! と。

わたしはそのとき、じゃあこれからのわたしの希望と勇気と元気は、
この「!」に託されたことになるんだなと思いました。
「!」が付加されたことによって、この句は、
希望の句から、勇気の句になったのです。
勇気とは、付加です。つけたしです。
あとから、あとから、なんどもやってくるもの。
それが、勇気です。

句や歌は、ことばであり、どうじに、ゆめです。
そしてゆうきでも、あるのです。
もういちど、あなたに、わたしに、会うための。

うしなっても、
さよならしても、
なんどでも、あえる。
それが、わたしたちの、勇気の理由です。
だから、わたしたちは、いつまでも元気でいられる

ゆめ、とは、おそらく、そういうものではないかと思うのです。
そしてこれまでの七人のかたからわきあがったゆめも
おそらく、そうしたものなのです。
うしなっても、それでもたちあがるなにか。
それが、ゆめです。そんなゆめを、みていたのです。
うしなったからこそ、あえるゆめに。

うしなったものがあるからこそ、いつでもはじめられるものがある。
欠けたことを起点にして、わたしたちは、はじめることができる。
「失ってから」、そのことを理由に、根拠にして。
また、あうことが、できる。

こんな夢やあんな夢をなんどもわたしたちは見うしなうかもしれない。
それでも、です。
にもかかわらず、は、ちからです。
わたしたちは、なんどもなんども「!」をつけたして
生きていこうとおもうのです。
たてがみをうしなって、自分にとって必要不可欠なものをうしなって、誇りをうしなって、プライドをうしなって、アイデンティティをうしなって、絶対にうしなってはならなかったものをうしなって、うしなえないものすべてをうしなったときにはじめて手に入れられる「!」を手にして。

だから、わたしにとっては『夢八夜』です。
ふたつ失った状態です。でもだからこそ、そこには希望があります。
わたしは失ったふたつのゆめをもかかえながら、
いっさいがっさいをだきしめて、はるかなるうとうとへと、
ダイヴしてゆこうと思うのです。

それははるかなるおふとんへの旅でもあります。
あえていうならば、おふとんジャーニー、です。

おふとんジャーニー。

この『夢八夜』はいうなれば、
ひとりの人間が短詩を旅路に夢見た、
遙かなるおふとんジャーニー、だったのです。

ではここでまたトイレタイムとして、ちょっとひと息いれるために特殊なソムリエの世界をスライドでご覧いただきましょう。
すきなひとからの手紙がきて、しかしなんだかわきおこるいやあな予感に、なかなか手紙を開封できず、手紙を〈寝かせる〉ことをえらんだじぶんを〈手紙ソムリエ〉と呼ぶかなしいソムリエのスライドです。どうぞ。

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ありがとうございました。手紙を開封するということもまた、ひとつの〈喪失〉につながっている場合があるということですよね。

さて。
わたしは、おさないときから、できれば、
手紙ソムリエか国際卓球審判かおふとんジャーナリストになりたいというゆめがありました。
国際卓球審判にはなり方がよくわからなくてなれなかったけれど、
おふとんジャーナリストならいまからでもなれるようなきがするのです。
なぜなら、おふとんジャーナリストとは、
いかに〈すやすや〉や〈うとうと〉に修練するかが、賭けられている仕事だからです。
わたしはすやすやしたり、うとうとするのが、得意なのです。
かつてハンバーガーを食べながらうとうとすやすやしていたことがあって
じぶんでもじぶんにおどろいたことがありました。びっくりしました。
ハンバーガー食べながらねむるなんて自分どうかしちゃったんじゃないかと(夢の中で)おどろいていました。それから起きて(現実の世界で)ハンバーガーを手にしながらふたたび驚きました。二度、おどろいたわけです。あっちの世界と、こっちの世界で。

そこでわたしが得た教訓はこんなものでした。
ひとはどんなシリアスなときにでも、うとうとすることができる。
わたしはわたしに思いました。「!」って。
またわたしはわたしをうしなって、「!」を手に入れたのです。

でも。それは、わたしだけじゃない。
ひとはみな、すやすややうとうとに習熟しきっているのではないでしょうか。
あなた、だってそうなのではないですか。
ある意味、だれもがみな、すやすやうとうとのプロフェッショナルでは、ないのでしょうか。
あなたやわたしは実は、うとうと教授だったのではないでしょうか。
すやすやの博士号をもっていたのではないでしょうか。

どう、でしょうか。

毎晩、みんな、すやすやします。
大きな「!」を抱きしめながら。
それは、人生でうしなってきた代償としての巨大な抱き枕のような「!」です。
塔のような長大な「!」に抱きつきながら、「!」に導かれつつ、
だれもが夢のなかで、おふとんジャーナリストになってゆくのです。

わたしは、こうおもうんです。
おふとんのなかでぐっすりとねむったひとびとは、
ひとりずつ、真夜中のいちばん深い場所でジャーナリストになるんだと。
おふとんジャーナリストに。

わたしはときどき浮かんだふとんのなかで
こんなゆめをみています。
星で埋め尽くされた夜空に、
おびただしい数のおふとんが隊列を組みながら、
飛んでいる。
ああ、あれがおふとんパイレーツの船団なんだな、とおもう。わかってしまうわけです。そういうものがやはりあったんだなと。
星を縫うように飛来するおふとんの船団にむけて
わたしのふとんも、ふいに離陸する。飛翔し、隊列に加わってゆく。
わたしはあるべき場所にやっと自分が来ることができたようにおもう。
いっせいに星がひかりかがやき、夜のなかを幾筋もの線のような風が抜けていく。
風が、吹いている。

はい、風が吹いてきたのでまたひと息いれましょう。今度はトイレタイムの最終回としてロングトイレタイムになります。なんとあの有名な宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』を限りなく志向した『(おなかいたくても)俺立ちぬ』のスライドです。おなかがいくら痛くても懸命に生きる紙飛行機職人サブローの話で、「俺いきめやも」というボールバレー・リーのことばではじまります。

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はい。ありがとうございました。
おなかいたくても、生きねば! ってことですね。
いざ生きめやも、ですね。たとえ、おなかいたくなるめやも、であったとしてもです。めやもめやも、です。

さて。
わたしは、毎晩、おふとんパイレーツのなかで
八つの夢を見ていました。
八つの歌や句を経由して。
でも、ほんとうにみたことはなかった。
ほんとうにその八つの夢を語るためには
起き続けなければいけなかったから。
だから、わたしのほんとうの夢は八つの夢が終わったいまこれからです。

わたしのゆめは、ただひとつ、
つぎのような書き出しではじまる物語を書くことでした。

こんな夢を見た。

実をいうと、いま、とてもねむいのです。
とろんとしながらこれを書いています。
書き直しはたぶんできないでしょう。
一回勝負です。構成もめちゃくちゃでしょう。支離滅裂になるでしょう。
でも、それが、ゆめというものだとも、どこかで、おもっているのです。
ふいに訪れたパレードのような、祝祭のような、カーニバルのような。
ゆめはすべてを許してくれるのだから。
シリアスなゆめなんて、ないのだから。
ぬるく、まるく、すべてのからだの分節がゆるいまま、さいごにわたしがねむりかけながらも語り続けていたということを大切にしたいとおもいます。
ぬるいです、まるいです、ゆるいです、ねむいです、さようなら、です。

お別れです。

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さよならをいった瞬間、いまちょっと眼がさめました。
つづけましょう。
じつをいえば、わたしは、ねむる主体のすべてになりたかったんです。

まどろむ主体、
添い寝する主体、ふて寝する主体、
嗜眠する主体、ねっころがる主体、うたたねする主体、
ねんねする主体、すやすやする主体、ぐうぐうする主体、ぐっすりする主体、
ごろ寝する主体、うとうとする主体、つっぷす主体、
ばたばたする主体、ふわふわする主体、
まるい主体。

そう、ねむることは、完璧な○になることです。

さいごのスライドです。

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最後のゆめは、わたしやあなたがこの○になって、
ゆめへとつっこんでゆくことで、終わります。

こんな夢を見た、といえないくらいに、
ふかく、おもく、ひろく、のびやかなうとうとに、
あたまから、つっこんで、ゆくこと。

あなたも、わたしも、毎晩、やっていることです。
〈こんな夢を見た〉のフライトに。

もう書くことも、語ることも、失われゆくこの場所で、
わたしたちはやっとこの〈はじまり〉に
たどりつくことができるようにおもいます。

たてがみを失ってからまた逢おう

うしなってもうしなってもわたしたちはなんどでも
ゆめをみることができます。だから、そのとき、
わたしもあなたもいつでもこの場所に、
ぐっすりと、かえってくることができるのです。

だから、またぐうぐうとお逢いしましょう。
なんどだって、ぐっすりと、あなたに逢うことができるのですから。

それでは、
逢うために、
おやすみなさい。

そうだ。
次にお会いしたときは、やっぱり、こんな一言で、
あなたに声をおかけしたいとおもいます。すなわち、

こんな夢を見た?

                  (了、ゆめのはじまりへ

  ※

【文中に引用させていただいた川柳、或いは、うしなってもうしなってもにもかかわらずもういちど夢をみるための句】

たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博
  (『セレクション柳人6 小池正博集』邑書林、2005年)

冒頭の穂村弘の短歌の引用は、穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(小学館文庫、2014年)に拠った。
また、文中のスライドは、御前田あなた『いつだって最終回』に拠った。

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短詩からはじまる八つの夢におつきあいくださり、ありがとうございました!
それではまたいつかのだれかの夢で、お逢いしましょう!!