夢八夜 第六夜 オクムラくんとミッコさんと闇シャンプーをさがす

第19期(2015年2月-3月)

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その頃でも恋はあった。自分は死ぬ前に一目思う女に逢いたいと云った。大将は夜が明けて鶏(とり)が鳴くまでなら待つと云った。鶏が鳴くまでに女を此処へ呼ばなければならない。鶏が鳴いても女が来なければ、自分は逢わずに殺されてしまう。
       夏目漱石「第五夜」『夢十夜』

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。
       夏目漱石『吾輩は猫である』

家出をしたあなたがマルセイユの街を 泣きそうになりながら歩いていたとき わたしがそのすぐ後を歩いていたのを知っていましたか? スイスで再会したときは わたしは何と声をかけて良いのやらわからなかった だってあなたは百ページ近くも行方知れずで やっと姿を現わしたと思ったら わたしより 三歳も年上になっていたんですもの
いつもいっしょでした たいがいは夜 読んでないときでさえ
       高野文子『黄色い本』

  *

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「こんな夢を見た。」という記述で始まるのが、夏目漱石『夢十夜』である。
オクムラくんはその事を知らないが、有名である。オクムラくんはクレヨンでびゅいっと引いたような太い眉を動かして、考えてている。オクムラくんは考える事は余り好きではない。
食う事が好きである。寝る事も好きである。あちこちこぶしを無闇やたらにふり廻す事も好きである。呆然として夕陽や桜をみるのも好きである。魚を丸ごとむしゃむしゃ食べるのも好きだ。だが考える事だけは、好きではない。

考えないで生きてきた。しかし、元気に生きてきた。オクムラくんは、それでいいと思っている。吾輩も、そう思う。
しかしそれでも、オクムラくんは、考える。オクムラくんには考えねばならない理由が、あるのである。

ひとは必死になると、考える。必死でなくとも、考える者もいる。オクムラくんは必死にならない限りは考えない者である。またクレヨンの眉が、ぐいぐい動いた。少しうとうとしているのだ。しかし、うとうとしつつも、全身で考えてもいる。そうせねばならぬ理由が、ある。
普段余り考える事をしないオクムラくんには、今できうる限りに考える事をしなければならない理由がある。

簡単に、それをひとの言葉でいい表すならば、それは、恋である。

だが、オクムラくんは、それを知らない。それを、ふわふわした感情の塊のようなものだと、思っている。オクムラくんであっても、いつかは恋とそれを名付ける事もできるだろう。だが、それがいつなのかは、吾輩も知らない。ちなみにここまできておいて今更ではあるが、吾輩に、名前は、ない。

ミッコさんから闇シャンプーの記述をさがしてほしいとオクムラくんは頼まれている。

ミッコさんは、オクムラくんのクラスメートである。いつも甘い苺の香りをふりまいている。苺の香水をしている。
オクムラくんは苺が好きだ。苺が好きだし、バナナも好んで食う。バナナも好きだが、カスタードプリンも食う。カスタードプリンも好きだが、シャコも食う。つまり、なんでも、食うのである。

「夏目漱石の『夢十夜』に「闇シャンプー」について書かれた箇所があるの。それはでもただ読んだだけではわからないように書いてあるらしいの」
ミッコさんはオクムラくんにフランス語の授業が終わった後に、そういった。正しいRのフランス語の発音をたくさんした後の事だ。オクムラくんはミッコさんのRの発音が好きだ。ミッコさんが一所懸命話している間、オクムラくんはその事を考えている。

ミッコさんはこんな短歌が参考になるかもしれないとオクムラくんにメモの切れ端を渡した。檸檬の香りがオクムラくんの鼻を打った。苺だの、檸檬だの、メロンだの、いろんな香りがするひとだと、オクムラくんはおもう。でも、メロンはまだない。オクムラくんの勘違いである。オクムラくんはよく勘違いをするひとである。家に帰って、誤って隣の部屋に入ろうと合わぬ鍵をがちゃがちゃしている事も、ある。鍵が合わず、暴れる事もある。多少、乱暴である。そうかと思うと、メロンを撫でたりしている事もある。メロンの質感が珍しいという。よくわからない。

オクムラくんは檸檬の香りが気になっている。惑乱しているようだ。暴れ者だが、すぐ誘惑される。オクムラくんの鼻先に桜の花びらが落ちる。春なのである。もう、春だった。だから吾輩がミッコさんのメモを読みあげてみよう。春だから、吾輩も、なんでもできる。

 ここは目を閉じなくっても闇のなか泡立てているおまえの頭

アリコさんというひとがつくった歌である。吾輩もミッコさんもそれを知っているが、オクムラくんは知らない。吾輩が読んでみたように、オクムラくんも声にだして読んでみる。かなり、がらがらした声だったので、驚いた老婆が、オクムラくんを振り返る。孫かと思った、と老婆はいった。すべての若者が孫にみえるんだよ、と老婆がオクムラくんに話しかける。
オクムラくんは、老婆と握手している。吾輩は何もいわず黙って静観していた。オクムラくんは、よく、わからない。

オクムラくんは老婆と抱擁を交わした後で、別れ、声に出して、アリコさんの短歌を何度か声に出して読み直す。滅茶苦茶な読み方である。それでも声に出して読めばなんだかわかってくるような気がするんじゃないかと、オクムラくんは思ったらしい。

オクムラくんが、読んでいる。風の音が、する。桜が、おちる。音をたてておちる。やはり、春、なのである。春も、オクムラくんの肩を何度も叩く。春だから、こうして吾輩もでてきたのかもしれない。いつ、どの時代にも、いるわけではない。

オクムラくんは短歌を声に出して読みながら、託された短歌について考えている。オクムラくんも眼を閉じて頭を洗ったりする事が、ある。でもこの短歌に書いてあるのは、俺の頭じゃないのか、とオクムラくんは思う。いいところに気づいたと吾輩は思う。それはいい感じじゃないのかな、と少しくだけた感じで吾輩は思う。「泡立てているおまえの頭」と書いてある。

オクムラくんが、考える。なんで、おまえの頭なんだろう。誰なんだろう、この短歌をうたっているひとは。どこからみてうたっているんだ、と。

オクムラくんには、よくわからない。わからなく、なる。すぐわからなくなるのが、オクムラくんである。デパートも迷って出られなくなる事が、ある。そうしてすぐあきらめて、階段にあるベンチですやすや寝てしまう。

本は、読まない。絵本は、ときどき、読む。鬼の話や鬼の話を読む。つまり、鬼の絵本しかオクムラくんは読まない。善悪はっきりしていれば、なおさら、よい。だから、もちろん、歌集を読まない。短歌を、読まない。でも、あの歌なら、かろうじて、知っている。きみがサラダ記念日、という歌である。しかし、きみがサラダ記念日、ではない。うろ覚えだったのである。オクムラくんは、芸術に関しては、いい加減である。

オクムラくんが前から歩いてくる。生まれた頃からオクムラオクムラとムラムラいわれるのはどういう気持ちなのだろうか、性格に影響したりしてこないのだろうかと少し遠くから吾輩は思う。吾輩に名前はないが、なんだか名前があるのもそれはそれで気の毒だ。オクムラくんは、遠くからみると、茄子みたいに、みえる。茄子みたいなオクムラくんはさっき別れたはずの老婆をおぶっている。老婆は迷惑そうな顔をして降りたがっている。何をし始めるかわからないひとだと思う。でもそういう部分がミッコさんは好きなのかもしれないと吾輩は少し思う。

オクムラくんが老婆を背負って、というよりも嫌がる老婆をかついで向こうから歩いてくる。オクムラくんとすれ違いざま、こそっとオクムラくんに吾輩は話しかける。特別なやり方で。

「ここは目を閉じなくっても闇のなか泡立てているおまえの頭」。この短歌の中では、「闇のなか」と書いてある。だから、すべてが闇に溶け込んでいる。闇の中だから眼をつぶってもつぶってなくてもどちらでもいいくらいの真っ暗闇である。闇の中だから、みるとか、みえるとか、みられるとか、そういう〈みる〉ことが意味をもたない空間だ。この空間に、「おまえ」がもつことのできる視線はない。だから「おまえ」は「おまえ」をしっかりとたちあげるすべがない。「おまえ」はこの闇のなかでは「おまえ」でさえないかもしれない。逆にいえば、この闇の空間では、〈どこ〉に「おまえ」がいてもいい。闇は、「おまえ」を超えた霊的な空間をたちあげる媒介物(メディア)でもあるのだから。だから、「おまえ」は闇のそこかしこから「おまえ」自身を感じることさえできる。この闇のなかで頭を洗う「おまえ」はあちこちに「泡」のように拡散している。「おまえ」が闇のそこここに遍在してゆくなかで、ただ〈触感〉としての「泡」だけが、増えてゆく。そういう歌なのではないだろうか。闇シャンプーのなかで、「おまえ」が「泡」のように増え、あとからあとからやってくるのだ。それが、闇シャンプーによって泡だてられた主体なのではないだろうか。

一瞬で吾輩はオクムラくんに以上の事を伝えたのである。でもオクムラくんは「主体」がわからないという顔をする。「主体」はなんだか美味しくない感じがするし、厭だという。わがままである。「主体」という言葉はオクムラくんの人生であまり関わり合いがない言葉だったので、一瞬で伝えようとしたら、見事に疎外されてしまった。シャットダウンというやつである。

次第に容量を超え始めたオクムラくんが、頭を抱える。背負っていた老婆がふりおちそうになる。老婆が、叫んでいる。オクムラくんは頭を抱える。優しい人間なのか、そうでないのか、よくわからない。落ちそうになった老婆が阿鼻叫喚の悲鳴をあげる。いま考えると老婆の意向にかかわらず、オクムラくんは無理矢理背負いこんでいたような気もする。ひとが駆けより、老婆を助ける。老婆は、違うひとの背中に負ぶわれていく。背負われて、桜吹雪のなか、消えてゆく。なんなのか、オクムラくん。

吾輩としょげているオクムラくんはそれぞれ別の道を歩いてゆく。
さようなら、オクムラくん。

あ、伝えたい事があった。思い出したのである。

さようならは、却下しよう。

さようならは、いつだって別腹である。さようならは、何度でもできる。吾輩はそう思う。それが吾輩のさよならの思想である。ひとはいつだってさようなら、である。だからこそ、何度でもさようならを繰り返す事ができる。最終回なんて、ない。

それに、吾輩も長く生きたり死んだりしている割には、おっちょこちょいだったのである。こればっかりは、人間にも、なかなか引けを取らない。おっちょこちょいは不治の病だ。だが、吾輩は、それも引き受けようと思うのだ。それが、生きてゆく事の、生命の貫通式ではないか。

また、桜の花びらが、音をたてて、おちた。

なかなか、桜、いい役をする、と思う。吾輩は、少し、にゃにゃにゃと言うと、花びらに猫パンチをした。

ミッコちゃんのおばあちゃん、と呟きながらしょげているオクムラくんの背中に駆け寄って、また一瞬で伝心する。一瞬は、長い。一瞬は、永遠である。これは病んでいても、わかる。病んだから、わかる。猫でも、病む。なあ、オクムラくん。あのね。

吾輩は、少しくだけた言葉で、この男に喋ろうと思った。この男には、それがいいかもしれない。

「ここは目を閉じなくっても闇のなか泡立てているおまえの頭」。あのね、この歌のね、「泡立てている」っていうのが大事じゃないのかな。「泡立てている」っていうのは、〈いま・ここ〉にしかない感覚だ。それは泡のようにわいては消えてわいては消えるものだ。「おまえ」が「闇のなか」でいくらあちこちにひろがって闇の隅々にまで行き渡ったとしても、それでも「泡立てているおまえの頭」はひとつしかない。この歌の中で「おまえ」は闇のそこかしこにいるかも知れない。うごめいているかもしれない。でも、触れられる「泡」は、「おまえの頭」は、「闇のなか」だとしても〈ここ〉にしかないんだ。この〈ここ〉にある「泡」こそが大事だと思うんだ。そこがどんなに深い闇だとしても、なにも見えない真っ暗闇の場所だとしても、それでも、にもかかわらず、「泡立て」、闇シャンプーできる「おまえの頭」があるということ。たとえ「おまえ」がどんな状態であれ、一回きりの、泡立てられる生を、さがしだすこと。ひとはそのとき〈一回性〉としての生を経験するんだ。闇シャンプーするたびに「おまえ」はさまざまな「おまえ」として闇のなかで迷い、別れ、苦悩するかもしれない。でも「おまえ」が泡立てている泡は、泡立ち方は、一回きりだし、一回限りなんだ。それが、生きることなんじゃないかな。そうしてその一回性を重ねることでひとはめいめいのそれぞれのやり方で〈闇シャンプー〉を生きていくんじゃないかな。闇のなかでも。それでも泡立てられた光のなかで。生きていくんだ。吾輩は、そう思うよ。

オクムラくん。

オクムラくんは、はっとした顔をする。吾輩は、ほっとした顔をする。オクムラくんが、頬笑む。ミッコさんが遠くから、手を振っているからだ。オクムラくんにとって吾輩の短歌考察は、全く関係ないといっていい。オクムラくんが聞いていたかも定かではない。またオクムラくんらしくうとうとしていたかもしれぬ。或いはミッコさんの事を考えていたかも知れぬ。

ミッコさんが駆けよってくる。そうして華奢なてのひらで吾輩の顎を撫でる。にゃにゃにゃ、とまたいってしまう。ごろごろもいってしまう。オクムラくんはほっとした太平の顔をしている。もしかしたらこの男は考えなくても闇シャンプーを知っていたかもしれないと吾輩は思う。ひとは考えなくとも、十全にその生を生きていく事でたどり着いてしまう場合も、ある。闇シャンプーとはもしかしたらそうした理性がとらえる事のできない生きられる泡の領域にあったのかもしれない。

泡立てるという事は、闇シャンプーとは、いまここにある生を、そうでしかないような形で、生き切る事なのかもしれない。たとえそれが失敗してもだ。

だとしたら、それは、漱石の『夢十夜』にも記述されていただろう。

にもかかわらずそれは生きてゆく事なのだ。

吾輩は実はかつてのいつかのミッコさんだったし、かつてのいつかのオクムラくんだった事もある。同時に未来でも数多くの人間であり猫であるのだけれども、それは伝えないままにしておこうと思う。吾輩はその意味でいつまでもどこまでも無名である。そしてその意味で、孤独である。でもその意味で、吾輩は、仕合わせでもある。吾輩は、まだまだすべての人間にあわねばらない。もっと、生きねばならない。吾輩は、吾輩だけの存在では、ない。

生きるという事は、すべてのこれまでとこれからのわたしの闇シャンプーをみとどける事だ。だから、オクムラくんも、ミッコさんも、生きなければならない。にもかかわらず、生きなければならない。416年にも、1185年にも、1923年にも、1995年にも、2011年にも、吾輩は生きていた。生きて、そのつど闇シャンプーをさがしていた。闇のなかの光を、光のなかの闇を、吾輩はみていた。吾輩はそのときも、にゃにゃにゃ、といった。かの夏目漱石も、ある時空において、闇シャンプーを体験している。体験というより、直観したのだ。直観は、直感と違い、ながいながい時間を必要とする認識である。だが、その直観によって、漱石も闇シャンプーにたどりついたのだ。そうして漱石は、眼を瞑る。 闇シャンプーに出逢うために。

いや、眼をつぶる必要なんか、ないのだ。

オクムラくんの手と吾輩の足を握りながらミッコさんが、微笑う。

桜がぽとりぽとりと落ちてゆく。大振りな花びらだ。

吾輩がごろごろいうのを聞きながらミッコさんが、「にもかかわらずだよねえ」といった。「時々思うんだ、にもかかわらず、だって。わたしのいま生きていることって、そうやって続いていくんじゃないかなって。それってすごくない? どんな反作用なんだろ。よくわからない。でもどんなことがあっても、にもかかわらずなんだって思うんだよ。それは忘れることじゃないんだよ。忘れないで、にもかかわらず、いまこれからもなんだよ。うまくはいえないんだけどさ。でも、そうなんだよ」

オクムラくんはなにもいわず立ち上がると、「俺もそうおもうっす! にもかかわらず、っす!」といってがむしゃらに走り始めた。やはりよくわからぬ男である。

しかし、よくわからぬ生命の持続にこそ、未来の秘訣はあるのかもしれない。にもかかわらずはその意味で、これまでを受け取る思想である。闇のなかでシャンプーをするように、これからのありかたがいくらわからなくってもそれでもそこで自らできる事をやっていく未来への意志だ。

桜は、盛大である。泡のように、朦々と、舞っている。

吾輩は、生きつづけなければならぬと思った。深い闇のなかで。どこまでもつづく闇と泡の無限の王国で。誰も忘れる事のできない国で。にもかかわらず、生きてゆくための国のなかで。

どんな状況であれ、にもかかわらず生きてゆく活路は、ある。

闇シャンプー・スペシャリストのアリコさんも、次のように歌っていたではないか。

ここは目を閉じなくっても闇のなか泡立てているおまえの頭  飯田有子

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真黒な眉の下で、大将の眼がぴかぴかと光っている。すると誰やら来て、新しい枝を沢山火の中へ抛(な)げ込んで行く。しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。暗闇を弾き返すような勇ましい音であった。馬はこの明るいものを目懸(めがけ)て闇の中を飛んで来る。鼻から火の柱のような息を二本出して飛んで来る。
       夏目漱石「第五夜」『夢十夜』

楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も 悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も どっちも六月六日の続きなんですものね ほとんど覚えてないような、あの茄子の
その後の話なんですもんね
       高野文子「奥村さんのお茄子」『棒がいっぽん』

  ※

【文中に引用させていただいた短歌、或いは過去に現在に未来に闇シャンプーをみいだし泡立てる夢をみるための歌】

ここは目を閉じなくっても闇のなか泡立てているおまえの頭  飯田有子
  (「闇シャンプー」『歌集 林檎貫通式』ブックパーク、2001年)

文中の「闇シャンプー」ということばは飯田有子さんの歌集の上記の歌がおさめられている章タイトルに拠った。
また冒頭と末尾の引用は、高野文子『黄色い本』(講談社、2002年)と、高野文子『棒がいっぽん』(マガジンハウス、1995年)にそれぞれ拠った。

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それでは次回「第七夜 柳本々々のうとうとラジオショー~春眠暁を覚えずなのだから今夜も眠らせナイト春の西瓜糖歌謡スペシャル~」でお逢いしましょう!