「緑子の部屋」第3回

第20期(2015年4月-5月)

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2-1
 緑子と、半年くらいだけ一緒に住んだことがある。ある日、僕んちに緑子が来た。ほとんど身ひとつで来た。
 緑子は、虫飼ってるっていうので有名で、ファーマーって呼ばれてた。友達にも誰にも、何となく言わなかった。今も言ってない。緑子との関係はなんか、密室みたいだった。

2-2
「何それ?」
「ん、これはね、ミシン」
 と言って緑子が、古びた筐体をコンセントに繋いでペダルを踏むと、ふおんと鈍く助走するような音に続いて、ダダダと震えてハコが鳴った。最小限の服や本と一緒に運び込まれた荷物の最後は、ミシンだった。
「工事現場みたいだね」
「ええ?」
「もしくは歯医者」
「ああ」
「少ない荷物の中から、わざわざこれ持ってきたの?」
「うん、実家に残しとくと処分されそうだったから」
 つま先を上げると少し遅れて音が消え、また踏み込むと鳴る。緑子はおばあちゃん子で、そのミシンもおばあちゃんのお下がりらしかった。簡潔な機能に対してまぬけなくらいの大きさが、古い機械特有という感じがした。クリーム色が薄く汚れて、ベージュみたいになっている。
「これって使ってたの?」
「あんまり」
「使ったことある?」
「あるよ」
 聞こえるように、音の山を避けて話す。音が途切れないよう、緑子はダダダの余韻ギリギリを狙って踏んで、また離す。クレシェンドとデクレシェンドの山が交互に来る。放心したみたいにやり続ける。そういうところが、緑子にはあった。そういうところっていうのはつまり、アーティスティックっていうかエキセントリックっていうか、みたいな感じ。そういうところに惹かれた部分も、あったけど。
 緑子と会ったとき、僕は大学5年目で、1年浪人もしてたしで、もうそろそろ何とかしなきゃなあと思いつつも実態はなかった。どうしていいか知らなかったし、それでもずっと何とかなってきた。
 そのくらいになると、自分のポジションとか取るべき行動なんかはもうだいぶ分かってきていて、なんなら惰性とセンスだけで残りの大学生活も終えられるなぁと思った。そうしていれば日付は進む。僕は人当たりよくそこそこ上手くやっていたし、一緒に過ごす人は適当にいた。大学から後だって、まるでイメージ出来なかったけど、また同じことを初めからもう一度やるだけの気もした。そんな僕に、緑子は新鮮だった。

「やってみる?」
「え?」
 歯医者の音は止まっていて、緑子が足で、ペダルを僕の方に寄せる。
「いいの?」
「うん」
 とか言って、別に大して興味はないけど、応じる。足を載せて、重みを掛ける。と、音が始まる。
「おおお! いいね!」
「ええ? そんなじゃないでしょ」
 と言いながらも、緑子がちょっと嬉しいのが分かる。そう、ほんとは別にそんなでもない。でもなぜか、こういう風にするのが緑子との慣例みたいになっていた。僕が少し大げさに驚いたり喜んだり、オーバーめにリアクションをして、それに緑子が、何でもない風に何か言う。それが一番、楽だった。
「だって俺、人生初ミシン」
「マジで?」
「うん」
 緑子と話す自分のやり方に、動物に赤ちゃん言葉で話すような気分の悪さを感じる。本当にうっすらだけど、子供をあやすみたいにしてしまう僕の感じを緑子はたぶん分かっていて、でも分かった上で、何でもない風に返す以外のやり方を持ってない。緑子のためにおどけるのが、僕はいつか面倒に感じるようになるだろうとふと思った。緑子が部屋にいることが、少し憂鬱だった。

2-3
 緑子とは、結局何が一番原因で別れたんだろう? と僕なりに考えてみたのだけれど、「緑子が緑子だったから」というのが一番しっくりくる答えだと思う。もしくは、「付き合ったから別れた」とか。
 好きに理由がないように、嫌いにも理由はなくて、その人がその人だから嫌いなのだ。残酷なようだけど、真実だ。だから「だめなところがあったら何でも言って、直すから」とかよく言うけれど(まあ緑子はそんなこと言わなかったけど。そして僕は誰からもそんなこと言われたことがないけど)、あれは無意味な言葉だと思う。そんなことできないから。それに、相手はあなたのだめなところが嫌いなんじゃなくて、だめなところがあってのあなただし、勿論いいところも同様だけど、とにかくその全体としてのあなたが嫌いなのだ。
 緑子が緑子だったから惹かれたし、最後はそれがキツくて仕方なかった。そのことを、緑子は僕以上によく分かってたと思う。
 僕は、ああいう子とも付き合ってみたかった。だけどやっぱり、ずっとっていうんじゃなかった。それはけっこうすぐに分かった。

2-4
 卒論を書くために、西洋美術史のゼミに入った。僕は美術なんかまるで興味なかったけど、何でもよかった。卒業のためにそこにいた。そこに緑子が来た。
 緑子はその先生のファンとかで、そのゼミに入りたくてうちの大学に来たらしかった。1年だったけど特別に受講が許された。すげーな、と思った。好きな画家は誰ですか? と訊かれて「ナラ ヨシトモ?」と答えたときの、緑子の「は?」という目を、いいなと思った。

2-5
 ミシンを踏み続けるモチベーションがもうなくて、「ミシンってうるさいね」と言ったら緑子が「工場なんてこんなもんじゃないよ」と言った。
「え?」
「うちの工場で事故あったときさ、あ、うち実家、工場やってたの。知らないか、やってたのね」
「ああ、そうなんだ」
「そうそう。でも工場って、けっこう事故、起こるのサ」
「何、その口調? え、事故? 何工場?」
「肉だよ。肉を加工して解体すんの」

 その日、緑子は珍しくよく喋った。なんだかちょっと、はしゃいでるみたいだった。僕んちに来て、嬉しかったのかもしれない。

 ウチのお兄ちゃん、工場で手伝いとかしてたんだけどすっごい馬鹿で、仕事とかちゃんとできないの。あ、事情とかじゃなくて普通に、障害レベル。だったから、こりゃヨソ出せないだろうってことでウチで働いてたんだけど、無能なくせに、働いてくれてる人たちに威張ったり当たったりしててさ。挙句の果てに、事故起こしちゃって。なんかけっこう何人も、バラバラになっちゃって。でもあたしは、お兄ちゃんも被害者だと思うよ。元はと言えばウチの親が、お兄ちゃんのこと恥ずかしいって思って、変に隠そうとしたのが悪い。まあでもとにかく今は一人でも多く助けた方がいいから緑子、あんたはこれを縫い合わせて、っておばあちゃんが言って。ね。無理だよね。って私も思ったから、え、おばあちゃん、フザけてる? って言ったら、大真面目だよ。いいから早く、何でもいいから縫い合わせてつなぎ合わせなさい、とか言って。えーって思うじゃん。でもなんか、そういう雰囲気じゃなくて。それで、落っこちてるお兄ちゃんの顔と目が合って。「どうしてくれるんだよ」ってずっと口がブツブツ、言ってるの。だけど首から下は、女の人。お兄ちゃんなのにおっぱいがある。それで、腰から下はまた別の男の人。筋肉質の足に、毛が生えてる。お兄ちゃんずっと、「どうしてくれんだよ」「なんで俺なんだよ」って言ってて、私さすがに可哀想になってきて。だから「よしよし、大丈夫大丈夫。大丈夫だよ」って。言いながらほんとは、この人なんで助かっちゃったんだろーと思った。だって、ラインに乗って流れていって、ミンチになった方がよっぽどラクじゃん。その事故のときもね、工場の機械止めてなかったから、可能性はあったな。

2-6
「みたいなことがあったんで、僕、お兄さんってどんなヤバイ奴なんだろうと思ってたんですよ」と大熊が言うと佐竹は、ひどいなーと笑った。「あ、でも事故の話は一部、ほんとっちゃほんとなんですけどね」「え?」「あ、もちろん人は死んでないですよ」と言いながら裏向きに揃えて差し出された両手のうち、左手の中指は、第一関節から先がなかった。「指って、よく拾って持ってったらくっつけてくれるとか言うじゃないですか。だからけっこう真剣に探したんですけど、見つかんなかったです」「え、それって?」「うんまあたぶん、餃子になったってことだよね」
 ォエ、と音がして井尾が部屋を出ていった。

「大熊くんも大変だったでしょ、あいつといるの」
 僕は、大変だったのか?
「家族でも大変なんだから、他人同士なんてね」
 大変、までもいけなかったと思いつつ、
「家族じゃないからいられるってことも、あると思いますけどね」と答えると、
「しかもワンルームでしょ。逃げ場ないよね」
「え?」
「でもなんにせよ、連絡とれてよかったよ。引っ越してるって知らなかったから」
「あ、え?」
「まあ確かにあそこ、お風呂狭かったもんね」
 とお兄さんが言った。

え?