「緑子の部屋」第6回

第20期(2015年4月-5月)

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5-1
 間奏。

 井尾がいる。それとは別の場所に大熊がいる。そしてまた別の場所に佐竹がいる。今回三人は関係がない。出会っていない。そういうこともある。
 佐竹は走っている。ランナーのように淡々と、一定のペースで走っている。
 大熊はラジオ体操をしている。しかしその動きは、音楽と合っていない。拍だけはかろうじて合っているものの、まるでデタラメな振りでいい加減に体を動かしている。
 井尾は誰かを見ている。目だけの存在になったみたいに、見ている井尾の体は忘れられ、視線の先に集中している。

5-2
 たくさんの並行世界が前へ、前へ向かって流れていて、折に触れみんな、もしこうでなかったら、と思う。今・ここで・自分に起こっていることと、いつか・どこかで・他の誰かに起こることとの交換可能性について考える。考えて、恐ろしくなる。今・ここで・自分に起こっていることに必然はない。いま、いま、いま、の連続が堆積して自分をつくっているのなら、その一つ一つのいま、の吹けば飛んでしまうような軽さを、どんな気持ちで眺められるだろう。

 例えば津波がやってきて、数十センチの差で波に飲まれて消えた人と飲まれず残った人がいたとして、残った人は「なぜ私だったんだろう?」と考える。もし飲まれたのが子供で、残ったのがその母親だったなら、「なぜあの子じゃなかったんだろう? なぜ私が残ってしまったんだろう?」と思うかもしれない。(し、思わないかもしれない。すべて母親がそういうやり方で子供を思うわけではない。)

 第二次大戦中にユダヤ人が、「ユダヤ人である」ことだけを理由に殺された。たまたまユダヤ人に生まれたために殺された。たまたま。そのユダヤ人認定は、定義が大変曖昧だった。と読んだ。何かの本で(覚えていない)。
 一方で。ナチスによるユダヤ人の大量虐殺を、私たちはわりとよく知っている。詳しく細かくは知らないけれど、「アウシュヴィッツ」という地名が「ユダヤ人大量虐殺」という出来事を代わりに指すことが出来るくらいには、その出来事は知られている。
 しかし「デイルヤーシーン」は知られていない。「シャティーラ」も。「サブラ」も。それらはパレスチナ人虐殺が起こった土地の名前。出来事として認識され、歴史として記憶される度合いが「デイルヤーシーン」あるいは「シャティーラ」および「サブラ」と「アウシュヴィッツ」とでこれほど異なっていることにも問題があり(そしてまた「アウシュヴィッツ」のみがユダヤ人大量虐殺という出来事を背負ってしまうことにも問題があるのだけれど)、ユダヤ人=被害者とのみ認識するのでは時間が現在に追いついていない。と読んだ。何かの本で(覚えていない)。

 人は知ったことしか知らない。知る機会の持たれなかったことは、その人の中に存在しないまま、しかしその人の関知しえないいつか・どこかに、確かにある。

5-3
 井尾、大熊、佐竹という人たち。彼らはこの小説の登場人物だ。彼らの存在は虚構だ。でも虚構が現実より小さいとか弱いなんて、言えるだろうか? 井尾さん、大熊さん、佐竹さんの物語をのぞき込んでいる私たちも、また同じくらい小さい。自分の触れ得ない膨大な可能性、たくさんの時間と出来事とその記憶を思うと、幽霊の目になって自分がかさかさに乾いて風化してばらけていくような心許無さと、自分がたった一点のいま・ここにしかいない(しかしそこには確かにいる)という二つの感覚が、いつも同時にやって来る。

5-4
 構造を知りすぎると人は壊れてしまう。心理学を学ぶ人の五十%が学士を取るまでに壊れ、さらに進学した人の八十%が院を出るまでに壊れる。それでも残った二十%が壊れた人間をたくさん直す。
 誰もが死体処理をしなくてもよい。線路に貼り付いた肉片を剥がさなくてよいし、溺れて膨らんだ体を引き揚げなくてよい。畳に溶けた脂肪と蛆を掻き出さなくてよい。そういう余計なことはせず、部屋で虫でも飼うことにする。

 二〇〇五年三月十三日。今日は、大学の入学試験だった。苦手な計算の問題が出た。「船が転覆しました。海で溺れている人がたくさんいます。下記に、選びうる救出方法と、それぞれの方法で助けられる人数および救出にかかる時間が示されています。どの方法が最適だと思うか、計算式と論述により、あなたの考えを述べなさい」自ら飛び込めば、一人をすぐに、助けられる。でも大半が死ぬ。答えは出ないように作られている。誰かを選ばなければいけない。でも選べない。違いが分からない。と言ったら、「みんな等しく平等だから、選んではいけない。だから、量的に多く助けられる方法しか選び得ない、と書いた」と語学の授業で隣りになった男の子が言っていた。なんでこの人は、大学に入ったのにまだ試験の話をするんだろうか。
 いつの間にか四月になって、大きな教室の中にいる。人がたくさん居る。お祭りだ。でも何をやっているのか、まるで分からない。質問できずにへらへら笑う。へらへら笑う。へらへら。へらへら。笑ってどんどん阿呆になる。阿呆になるのが上手だった子から試験をパスしていって、最初は冗談でわざとやっていたのが、少しずつほんとの阿呆になる。虫の友達たち。一人ひとりの顔を覚えている。
 選ぶことの出来ない人は選ばれない。選ばれて、選ぶ側になる力を獲得する。溺れている人を出来るだけたくさん助けたいと思って始めて、間に合わなくて痴呆になりませんように。と遠くから身勝手に願って、自然に離れていく。みんな元気でやってるといい、と心から、何の重みも責任も持たない遠さで思っていた二〇一三年の十二月、いちばん阿呆で可愛かったクラスの男の子が、部屋でドロドロに溶けて亡くなった。死んでいた、夏に。と聞いた。気がするけれど、誰が、どうやって私に知らせたのか。覚えていない。記憶が曖昧だ。薄れてしまう。クラスメートの何人を思い出せるか。何人が私を覚えているか?
 三万人の死者。年間に。自殺による。その数を思うと個が消える。「戦争でもなかなかこんなには死にませんよ。これは形を変えた戦いです」と新聞で、漫画家の女の人が言っていた。だけどアウシュヴィッツの強制収容所の博物館で、大量の髪の毛、大量の肌着、靴、歯ぶらし。5号館、6号館、7号館、だんだん慣れていく。個を見られなくなっていく。ひと筋ひと筋の髪の毛よりも、茶色い山の繊維質。肌着の一枚一枚よりも、ねずみ色の山の布。ナイーブは量に負ける。麻痺して通り過ぎていく。
 東日本大震災による死者、負傷者、行方不明者、その数が毎日新聞に載っていたはずだそう言えばでも(「毎日新聞」ではない)今はない。記載がない。文字がない。ということは、ある日まで載っていて、ある日から載っていない。印刷された文字は消えない。だからある日まで載せていて、ある日から載せない、そういう判断をした人が、その意志が、その脳みそが、肉体が、いつかあった。
 今日あった肉体が次の日に消えることはないので、昨日のホームレスは今日消えない。でもある日、公園のベンチに仕切りが出来る。公園のベンチで眠ることを考えたことのない人は、その仕切りの意味を考えない。そうして知らないうちにホームレスを見なくなる。見えないものは、居ないのと同じだから、安心快適である。問題がない。その人はその安心さ、快適さに気付かない。見えすぎると壊れてしまうから、見ずに済んでよかった。そして壊れなかった分また今日も元気に、がんばりましょう。がんばりましょう。

5-5
 ラジオ体操している大熊の側を、ランナー佐竹が走って通る。大熊がラジカセのスイッチを押して平和なメロディを止め、「タッチー!」と呼んだところで、呼ばれた佐竹が立ち止まり、規則的な足音が停止する。
「なんすか、センパイ?」「ちょっともう俺らだけで先始めようぜ」「え、いいんすか?」「うん。井尾ちゃんたぶん遅くなるから、餃子焼き始めといて。俺ビール取ってくる」「はーい」
と言って佐竹が、ホットプレートを熱し始める。大熊がビールを取りに行く。井尾はまだいない。