「緑子の部屋」第8回

第20期(2015年4月-5月)

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7-1
 彩がさ、ビルの屋上にいて、あられもない恰好で走ってんの。腰のだいぶ上らへんまでしかない、ペラッペラのいい加減な法被? みたいなの、一応羽織ってるんだけど、全部はだけちゃって胸晒して走ってて。すっごい勢いで、足も裸足で。え? ああ、一応パンツは履いてるよ。でもグルグルぐるっぐる「ア゛ア゛ア゛―!!!」って半狂乱みたいになって走ってて、それを私は、別のもうちょっと高いビルの上から見てるんだけど、あ、この人もうすぐこの軌道から外れるなって、分かるの。あるじゃんそういう、今こうして立ってる自分が見てる世界があって、でも同時に、超越的な視点もなぜか持ってるっていうか。いち登場人物と、語り手兼ねてます、みたいな感じ。私と同じビルには他にも人がいて、その人たちはその「ア゛ア゛ア゛―!!!」って半狂乱の彩をげらげら笑いながら見てるんだけど、私は見たくないから、彩が落ちる瞬間を。だから、トイレ行きたくなったフリとかして、ていうか実際、「あ、ちょっと私、トイレ行ってこよっかな~」とかわざわざ言って、でも心の中では、落ちちゃう落ちちゃう! って思ってるから焦ってるんだけど、でも私が急いでその場から離れてるってことが周りにバレたらダメだから、「ふんふふーん」みたいな小芝居とかして、一生懸命、そっちを見ないようにしてて。そしたら案の定、ドーン!!! って。すごい音がして、あ、今落ちた、やっぱ落ちた!! と思って。間に合った、危ねー! って、見なくて済んだんだけど。でも見ちゃってるから。笑ってた人たちは、まさにその、彩の肉体が砕ける瞬間を。見ちゃってるから、「ギャー!!!」って。みんな超ショック、「ア゛ア゛ア゛―!!!」ってなってて。そりゃそうだよね、見たくないもん。でもなんか、瞬間的には危ねー! 見なくて済んでよかったーと思ったんだけど、私これすごい分かる、と思って。あ、これっていうのは、彩がそういう、そのときの状況とか、それまでの彩が辿ってきた流れの末の今、みたいなことだったら、そりゃ落ちるよな、ていうようなこと。で、よく分かってたのに、というかよく分かってたからこそなんだけど、私は今、とにかく自分がその瞬間を見ないように、ということだけ、しかもそう行動してるっていうのがバレないようにっていう風に、考えてたなというのがよく分かって、目が覚めた瞬間、物語はスーッと退いてくのにその感触だけがハッキリあって、一日経った今もその感じがまだ超強く残ってて、ほんと、後味悪い。

7-2
 ふーん、と気のない相槌の後、よく覚えてんね、という言葉がやってきたので、興味ない? と聞いたら「そんなことない」と答えたけれど、大熊くんは明らかに聞いてない。もう眠いんだろう。さっきからソファーで、ツタンカーメンみたいな形になって目をつぶってる。
「食べてすぐ寝ると、太るよ」
 タッチーの帰った後の部屋には、餃子の匂いと油の匂いがごちゃ混ぜになって漂っている。人が来てくれると大熊くんも楽しそうになるから、最近の私たちは、もう月に一度はタッチーをドーピング。でもそうやってはしゃいだ後にはどろんと疲れて、結局もっと何もしゃべらなくなる。
「ねぇ、寝るならちゃんと寝て」
「うーん、それはさぁ、ヘコむね」
「え? ……興味ないなら話さなくていいよ」
「いや、分かるよなんか、うん」
 ツタンカーメンは目をつぶったまま、ソファーから移動する億劫さ一心で、話し続けてくる。
「でもさ、その、アヤちゃん? はさ、あなたが見てようが見てなかろうが、落ちたわけじゃん」
 ……。
「そこでもし目をそらさなくても、何が変わるわけじゃない。……って、俺は思っちゃうけど」
 J-POPか。
「や、ごめん、そういうことが言いたいんじゃなかったっていうのは、分かるんだけど」
「……うん」
 そのまま20秒くらいして、大熊くんは観念したのか、ヨイショと重そうに体を起こした。
「寝ないの?」
 んん、と曖昧に答えたら、あそ、じゃあワタクシは寝ますんで、とさっくり、行ってしまった。

 大熊くんは、絶対に私に添ってくれない。譲ったり、自分が変わったりしない。それがいいなと初めは思ったけど、最近はなんだか、すごく寂しい。この人といても、何の意味もないような気がする。

7-3
 洗い物を流しにやって、歯を磨いてベッドに行くと、大熊くんはまだ起きていた。
「あ、緑子ごめん、俺の携帯、充電に挿しといて」
 え?
「充電器、壁に挿さってるから」
「え、なに?」
「え?」
「今、なんて言った?」
「え、何が?」
「今、なんて言ったの?」
 大熊くんは、明らかにまごついた表情で、でもそれを誤魔化すように「……あれ、ごめん怒った?」と言ってベッドから立ち上がると、「すいませんでした、自分でやりまーす」とコンセントに向かおうとするので、その道を体でガードする。
「え……なに?」
 大熊くんから、笑いが消える。
「あのさ、別にそんなに怒ってるとかじゃなくて。まあ別にいいんだけど、」いやいや「いやよくないんだけど」「うん?」

 間。
 を空けるほど言いづらくなるぞー! と思って人格を、英語の自分にタッチする。しゃべれない英語で話すときの、あの感じ。必要最低限のことだけをまっすぐ話す。自然と身振りも大きくなったりして、
「大熊サンさ、最近調子どう?」「ん、なんの調子?」「……アソコの調子、どう?」「はあ?」「あたしはすげー調子悪いんだよネ!」

 大熊くんのまなじりに一瞬緊張が走って、でもするっと「え、大丈夫? 病院行った方がいいよ」と言うからすかさず私は「うん、行った。そういう意味では大丈夫」とポジティブに状況を開示。しながら話を前進させるべく、「じゃなくてこれは、どっからやって来たのカナ? っていう話を、してるんだけど」とあくまで平静を保ち、相手にも同様の努力を求ム姿勢を崩さずいると大熊くんは、「え? でも俺、なんともないよ?」と意地でもシラを切り通そうとするので、私は情けないやら腹立たしいやら、ついつい

「じゃああんたは平気で、向こうの女がどうかなってんじゃないの?」

と強い口調で言ってしまった。

「え、だれ?」
「だから、さっき私と間違えた女」

 再びの、間。
 大熊くんの目や眉毛や口のまわりがぐにゃぐにゃぐにゃっと動くのを、見たくない。いいから早く、何も考えたりしないで早く、しゃべればいいのに。

「あ、何、俺いま疑われてるの?」
 大熊くんの右手が、首のくぼみをいじり出す。鎖骨と鎖骨の間の薄い肉が、指でこねくり回される。
「え、さっきって何? なんのこと言ってんの? 携帯充電してっつったから怒ってんじゃないの?」
 そんなことで怒るわけないでしょう、と言おうとして、涙が出そうになって止めた。指が生き物みたいに動いている。大熊くんはもう怒ってしまっている。泣いたらもっとだめになる。できるだけ、落ち着かせるように、言葉を選んで、区切って話す。

「だから、私のこれはさ、どっから来て誰とつながっちゃったの? って、言ってんの」
「は? お前、なに気持ち悪いこと言ってんの? そっちがもらってきたんじゃないの?」

7-4
 涙が出た。
 あーああ・・・と思ったけど、もう一度出てしまったら打つ手なしだ。本当はこれは、私が言葉をしゃべった時点で限界までのぼってきていて、あとは出ていくしかなかった水で、だけど大熊くんは、自分の最後の一言で私が泣いたと思っている。泣いたら急にギョッとして、悪いことした…みたいになって居心地悪そうになるのがむかつく。ホントにむかつく。悪いことなんか、なんなら最初からずっとされてた。誤魔化そうとしたりシラ切ろうとしたり、あなたはずっと失礼だったし、私が泣く前から、お前はずっと居心地悪くて然るべきだったぞ。
 最初の一粒にオロオロされたり、その後しばらく流れ続けるうちに「ふぅ」みたいになられるのが嫌だから、表面張力に頼って限界までこらえるわけだけど、結局流れ始めてしまうといつも、この頑張りは意味ないと思う。涙なんか物理で、生まれた水が涙腺という管を通って表に出てきてるだけなんだから、「出た!」という瞬間にそんなに注目するのをやめて欲しい。そんなことより、そもそもこの水分が生じる状況を生み出すことを改めて欲しい。
 と、ひとしきり考えて、時間差で最後の一言がジワジワ来た。涙が出始めると、エネルギー使うし、体に起こったことに自分でもショックを受けて頭がぼんやりしてしまうけど、この人わたしにけっこうヒドイこと言わなかった? 言った内容もだけど、言い方とかすごい、ヒドくなかった?