第六章 愛する幻

第20期(2015年4月-5月)

「ここに器がある。
だが目を凝らしても普段は目にすることができない。
見えないこの器は、個人のみでなく、
人々の無意識によって形作られている。」

鯨の元を離れてサボテンだらけの大地を歩いて、
男は乾地と荒野の境に足を踏み入れた。

荒野の先に林があり、土が湿り気を帯びていたので、
行く先の土地には水脈があることが想像できた。
林に入ると、木々がささめき合って揺れていた。

やがて、木々の音が男には段々と女の密やかな笑い声に聞こえてきた。
どこか懐かしい声だった。

惑わされぬよう警戒をしながら、林の終わりへ歩を進めてゆくと、
大きな木の下に美しい女が立っていた。
それは、亡くした妻の姿に見えた。昔の若い頃の妻だった。

女が微笑みかけたので、男は思わず妻の名を呼んだ。
女は口に手を当てて、密やかに笑うと言った。

「拾ってください。これは私そのものです。」

女は持っていた水瓶を下に落として割った。
男は手に傷をつくりながら、疑念も忘れて破片を拾い、
懸命に土をこねて継をして組み立てたものを女に渡した。

女の手に渡ると甕はいつのまにか元の美しい姿に戻った。
彼女はまた言った。

「これを拾ってください。私そのものです。」

男は根気強く何べんも拾い集め、組み立て直した。
女は悲しげに微笑しているだけだった。

男は疲れ果て、なぜこんなことをさせるのかとつぶやいた。

女は悲しげに言うだけだった。

「拾ってください。私そのものなのです。」

そして、やっと男は真意に気づいた。
妻の言う「拾う」の意味が異なっていたことに。

男は、これを直せば、彼女の失われた肉体が元に戻り、
精神や魂が吹き返すものだと見当違いをしていたのだ。
男は失った妻をまぶたの内に見た。

彼女は失われてしまったこと、男や人々の心の内にしかないことを
彼はまざまざと痛感した。

そして、涙を流しながら穴を掘り、彼女の水瓶を一片、一片、中に入れた。
どのかけらも美しい文様で忘れることはなかった。

男はもう妻を失うことはなかった。
彼女は彼の心の中におり、男はもう目の中に象はいなかった。
しかし、そのことで彼はもう駆け出す必要がなかった。
象の目はどこでもあり、とどめることはできない。

男が静かに森から出ると、目の前には草原が広がっていた。