いつどこで私やあなたに「プロ意識」が芽生えるか

第20期(2015年4月-5月)

 文芸書の編集者だった頃は、書棚に並ぶ紙の書籍のほとんどが現代作家の小説だった時期もある。しかし、かさばるコミックを手始めに少しずつ電子版で買い直し、著名な人気作家の傑作ベストセラーも順番にKindle端末へ吸い込まれていくと、ラインナップがずいぶん様変わりした。今、紙で残った蔵書には「作家でない人」が書いた少部数の本の占める割合がかなり高い。

 それで気づいたのだが、私は写真家の書いた文章が好きだ。画家や建築家の書いた文章が好きだ。俳優や料理人の書いた文章も好きだし、著名人の配偶者が書いた文章も好きだ。年老いた人が会社勤めを定年してから書いた文章も、10代の子供が大人たちに薦められて書いた文章も好きだ。「書くことが本職でない人」の文章に、「書くのが本職の人」とほとんど同じ対価を払う、その感覚が、なかなかに好きなようである。

 新人賞を獲ってデビューしたような専業プロ作家たちをあちこちの劇場と契約して檜舞台に出るパフォーマーとするなら、彼ら「本職でない」書き手との出会いは、大道芸やストリートミュージシャンの観客になるようなものだ。私は、兼業文筆家である自分もそちら側の芸人に近いと考えている。出版社という名の大劇場に出資された仕事もするが、普段はインターネットの片隅で道行く人の反応を楽しみながら、時々「投げ銭」をもらう。それだけで生計を立てているわけではないが、それにこそ生かされている気持ちがある。だから物欲しげに帽子を逆さにして置いておく。

 相手がアマチュアでもプロでも、専業でも兼業でも、場所が劇場でも道端でも関係なく、あなたは私に、私はあなたに、銭を投げることができる。羊頭狗肉の不良品を掴まされたら誰もが「金返せ」と怒るだろうが、通りすがりの「投げ銭」は、そもそもが「返ってこないお金」だ。大抵は失敗し、うまくいくとそのぶん嬉しい。すぐ近くに超一流とお墨付きのレストランが並んでいても、冒険心を煽る夜店での買い食いがやめられない、なんて感覚にも似ているかもしれない。

 立ち止まってまるまるパフォーマンスを観賞しつつ、遠巻きに身を引いて絶対にお代を投げようとしない客も大勢いる。三ツ星レストランで供された食事を食い逃げすることはなくても、なぜか彼ら観客の財布の紐は、ストリートに出ると異様に堅い。絶対に「損」だけはしたくない、という人たちは、投げ銭やB級グルメには不向きなのだろう。

 私の書棚には、画家や建築家の書いた本、子供が書いた本が並ぶ。大抵は大失敗だが、時々は読み終えて大満足する。「せっかく発表の機会を得たからには、素人ながら精一杯執筆しました」とあるような序文が好きだ。またいつか新刊が出ますように、と祈りつつ、既刊を手元に置いておく。私は「書く人」としての彼らにお金を払った。私が払ったお金をもって、彼らは何が本業であろうと「書くプロ」にもなった。この私が、した。その感覚が、なかなかに好きなようである。

 まずは通りすがりに演奏を聴いてもらいたい。ろくに聴きもせず罵声や生卵をぶつけられては困ってしまう、なるべくちゃんと聴いてほしい。私の帽子へ率先してコインを投げ入れてくれた人のことは、特別に大事にしたい。そうしてお金を払った人のためだけに演奏しているわけじゃないが、なるべく大勢から、気持ちよく拍手や投げ銭をもらえる「大道芸人」でありたいなと、私自身もまた、思っている。

(つづく)