倉庫とパッケージ、3。

第21期(2015年6月-7月)

倉庫とパッケージ、3。

週末にはワインでも、の話。

忘れないように努めていることは、
やがては忘れてしまう事であり、
思い出さないようにしていることは、
何かの拍子に必ず思い出してしまう事である。

この二つの事柄は、
或いは別々の倉庫に同じ名前で保管されているか、同じ倉庫に別々のパッケージで保管されている。
つまり、
記憶というものは僕たちの意思や考え方だけでは完全には管理できないもので、その類似性が記憶の引き出しの取っ手のような形をして時折、僕の人生にその重要そうな「何か」を問いかけて来るのだ。

人間の記憶の60%ほどは「匂い」についてなのだと、誰かが何処かに書いていた。
これは僕が、2000本程度のワインを記憶していた頃の話。

パント(瓶の底に在る凹み)に指をかける。それだけでこのワインが何なのか判る(いや、それくらいにこのワインを愛していた、そしてそれは愛しい人の下唇に親指をあてがう感触に限りなく似ている)。
ラベルをじっくりと眺める。僕はラベルでワインを覚えた事が一度もない。むしろラベルでは判別がつかないものが圧倒的に多い。それでも、ワインのパントに親指を忍び込ませている間、僕はまるで井戸の底でも覗き込むようにラベルを見やる。
そこまでの儀式が終わると、漸くテーブルにワインを置いて、右手の人差し指でシールの縁をゆっくりとなぞる。そして想像する。いや、会話するに、近い。どんな香りがするの?どんな色をしているの?僕を幸福にしてくれる?その答えを待たずして、僕はジャケットの上着の左ポケットからソムリエナイフを取り出す。
シールを剥がし、コルクにスクリューを突き立てる。ゆっくりと、真っ直ぐにスクリューを捩じ込み、瓶の口にテコの部分を当てがい、コルクを抜く。ワインを支配する事の出来る唯一の瞬間。ワインが僕らに向けてただ一度だけ見せてくれる恥じらう少女のような刹那。この儀式が終われば、僕らは必然の結果としてワインに支配されるのだ。そう、その魅力によって。
抜き取ったコルクをスクリューから外してそっと鼻に近づける。

世界が、その形を失う。

一面芝生の広い庭に立っていた。
夕暮れにはまだ間がある。太陽は中天の頂を越えたばかりの燦燦たる光を芝生の庭に降り注いでいた。僕は裸足だった。少し離れた場所に小さな池があり、池の上を吹く生暖かな風が、水の香りと庭に咲く花の匂いを混ぜながら僕の元に訪れる。
左手に見える豪著な古い洋館の二階の鎧戸は開け放たれ、風が部屋の白いカーテンを揺らしている。カーテンの隙間から少女がこっちを見ている。15歳に満たない少女だ。ブルネットの髪を風になびかせて赤い洋服が白いカーテンとのコントラストを鮮やかにこちらに訴えかけている。少女が僕に気付いたのか部屋の中へと消えていく。

コルクをテーブルの小皿に置く。
鼻の奥、脳に近い部分にはまだスミレの様な香りが残っている。僕は逸る心をなだめるように静かにボトルを持ち上げ、大きなグラスにほんの少しだけワインを注ぐ。
深紫色の液体は、グラスの底で踊るように跳ね上がったあと、静かに波を打ち、やがて眠ったように微動だにしなくなる。
僕はグラスを持ち上げてその華やかで官能的な香りを脳の奥へと迎え入れる。

そう、夢の続き。世界のもう一つの形。

池は夕焼けを含んで世界を赤く染めている。芝生の庭は穏やかな夕暮に包まれて、何処かから運ばれて来る温かで香ばしいパンを焼く香りにみたされている。空は赤から群青色までを美しいグラデーションで創り上げ、今日という日の名残と明日への期待をその半球に含ませている。
あの部屋の窓辺に女性が立っている。さっきの少女に違いないが、明らかに20代後半の女性の色香を漂わせ、僕を手招きしている。僕は魅入られたように屋敷の扉を開け、中に入る。湿った古木の香りがフロアに満ち満ち、ヒヤリとした空気が肌に絡みつく。二階へ。見当をつけた部屋のドアを開けると、彼女はベッドに腰をかけてこちらに背中を向け、窓の外を見ている。吸い寄せられるように僕はベッドへと歩き出す。

グラスを顔から遠ざける。
口に含んでしまえば、喉を通ってしまえば、後は酔うだけなのだ(もちろん、人によるが。僕にとっては酔うだけだ)だから、この口に含む前の時間こそが最も貴重なものだ。
たった数分の時の中で、少女は大人に変わった。昼は夕闇へと移ろった。ワインの変化は一瞬で悠久だ。僕はその洗練された香りからその数だけの物語を想像する。物語の数はワインの数だけあり、飲む相手の数だけある。
ワインの香りは僕の記憶と想像の引き出しを開けて、必要な場所へと僕を誘う。見たことのあるものと、想像でしかないものがそこには混在し、複雑怪奇な辻褄を幻想的に掛け合わせて成立させ、そのワインにしかない物語を創り上げるのだ。

さあ、週末にはワインを飲もう。
この一週間は僕にとって特別な一週間なのだから。