倉庫とパッケージ、4。

第21期(2015年6月-7月)

倉庫とパッケージ、4。

今日も生きている。幸福な事に、の話。

忘れないように努めていることは、
やがては忘れてしまう事であり、
思い出さないようにしていることは、
何かの拍子に必ず思い出してしまう事である。

この二つの事柄は、
或いは別々の倉庫に同じ名前で保管されているか、同じ倉庫に別々のパッケージで保管されている。
つまり、
記憶というものは僕たちの意思や考え方だけでは完全には管理できないもので、その類似性が記憶の引き出しの取っ手のような形をして時折、僕の人生にその重要そうな「何か」を問いかけて来るのだ。

僕は昨日、生まれた。

正確に言えば、38年前の昨日、生まれた。
その日の京都は梅雨のど真ん中で、土砂降りの雨は日曜日を白味がかった灰色に染めていた。
アスファルトを打つ雨音は永遠に鳴り止む気配を見せず、世界が水浸しになってもおかしくない、そんな日だった。

正確さを欠いていては、話が前に進みにくい。

僕は母の体から出てきた時、死んでいた。
だから、生まれてきたというのは正しくない。
僕は母の体から出て来た。紫色の体と呼吸一つしない器官を伴って。
看護師の手によってすぐに蘇生装置(と呼ぶのが正解か知らない)に入れられて母には会わせて貰えなかった。
母が退院して数日が経った頃、病院から電話があった「男の子ですよ、迎えに来て下さい」と。
母は、この時漸く、僕がこの世に生まれて来たのを知ったと言っていた。この電話が来るまで僕の事は諦めていた、と。

僕は1度目の死を乗り越えた。
思い出、という倉庫に『1度目の死』とパッケージされたこの記憶は僕が直接目にしたものではない。
僕はこの事を15歳の誕生日に聞いた。
でも、もっとシリアスだったのはこの15歳の誕生日は、僕に二度目の死を宣告する為のものだった事だ。

二度目の死について書く前に、僕の大切なものについて記しておく。

それは、名前だ。

父と母は、僕に素晴らしい名前を付けてくれた。僕は僕の名前を誰よりも愛しているし、その美しさについて理解している。だから、この世界のほとんど誰にも僕を名前で呼ぶのは遠慮して欲しい、そう思っている。
それは小学校の低学年のときから一貫して変わる事のない感情であり、フィロソフィーであり、プリンシプルである。
僕を名前で呼ぶ人は片手にも満たない。
だから僕は、僕に関わる全ての人に「コニー」と呼んで貰う事を望んでいる。
優司(まさもり)とは、読めない。だから、大抵の大人たちが僕を初対面で「ゆうじ」と呼んだ。
悪くない。誰もが僕を正しく認識しないのだ。
幼い頃から僕は僕の名前を間違えてる大人たちに訂正する事はなかった。大人たちがゆうじと呼ぶなら、それはそれでいいと考えていた。
でも、小学校の高学年になる頃、同級生たちが一斉に、間違って呼ぶ大人(主に担任になる先生達だった)に「違うよ、まさもり君だよ、まさもりって読むんだよ」と言ってくれるようになった。
僕は友達というのが本当に大切なものだと、大切にしてくれて、大切にすべきものだとこの時に知った。読めない名前を読めないと言うのは大人達の柔軟性のなさで、子供達はみな、誰かが僕の名を呼ぶのを聞いて(または僕自身に直接尋ねて)、それをなんとか記憶にとどめて、僕を、僕の名前を文字列による小西優司ではなく、お友達のまさもり君だ、と分かってくれた。
素晴らしい事だ。
だから、正確に書き直す。
僕は大人たちから読める読めないの理由の結論として、まさもり、と呼ばれる事に不快の念を抱く。それならば、コニーと呼ばれたい。

二度目の死について、書く。

15歳の誕生日、僕は20歳までの命だと聞かされた。唐突だったが、驚きはしなかった。人間はいつか死ぬのだ。
僕は5歳の時に脳腫瘍が見つかった。真っ直ぐ歩く事が出来ず、全ての視覚物は二重に目に映り、階段からは毎日のように落ちた。
検査して手術するかを話し合ったが不可能だった。幼な過ぎたのだ。だから、長く生きても20歳までだと思うように、医師はそう両親に話した。僕はそれを15歳の誕生日に知った。
どうする?と聞かれた。20歳までを好きな事だけをして生きる事も可能だし、それでも構わないと母は言った。僕は首を横に振った。普通に高校に行ってサッカーをする。受験して、勉強して、サッカーして暮らす。そう言った。
僕は高校に行って、サッカー漬けの毎日を過ごした。ヘディングは嫌いだった。一年生からトップチームに入って、学年のキャプテンになり、二年生で副キャプテンになった。三年間試合に出続けた。監督は素晴らしい人だった。僕を愛してくれて、チャンスと叱責を与えてくれた。監督の期待に応えたかった、監督を幸せにしてあげたかった。サッカーは僕を幸福にしてくれて、僕に他人を幸せにする喜びを教えてくれた。これまで夢中になったどんな事よりも、サッカーは僕にとって特別なものだった。
もし、僕に命の期限がなかったなら、あの時、僕はサッカーを生業にする道を進んだかもしれない、と思う。でも、僕には出来なかった。僕は全ての誘いに背中を向けて、イタリアへ渡った。

イタリアでの生活については書かない。
それは期限の決められたバカンスであり、小休止であり、足踏みだからだ。
それでも僕は俳優になろうと決めて帰国した。
自転車の喪失のおかげだ。

僕は東京へ出た。帰国して半年も経たないうちに。小さな俳優養成所に入って、一年間に11本の芝居に出た。ただただ必死に一年を過ごした。
そして、20歳の誕生日が来た。

朝からきちんと風呂に入って、洗濯物を済ませて、部屋を掃除した。捨てられるものは極力捨てて、ドアの鍵は開けたままにした。
何かあっても良いように、準備が必要だった。
両親からプレゼントが届いた。素敵なものばかりだった。欲しいものばかりだった。
電話が来て、母は「元気なのか?」と聞いた。元気だよ、と答えて電話は終わった。
僕は20歳になった。意外にも、あっさりと。
僕は二度目の死を乗り越えたのだ。

それから、2年か3年の間、僕は自分の事しか考えない暮らしを続けた。生まれ変わりたかった。
18歳からの二年間で味わった色んな恐怖やストレスを忘れるためだけに毎日を送った。
一日に二時間しか眠らず、毎日のように働き、本を読み、テレビを見て、政治と経済について勉強し、歴史とワインとマーケティングについて学んだ。
そして、遊んだ。二日二晩眠らずに遊んで、また働いて。そんな事を繰り返した。

生きるとは何なのか。
生きて行くとはどういう事か。
本当に、知りたかった。

昨日、僕は38歳になった。

素晴らしい事だ。
生まれて来なかったかもしれない命は、20年からさらに生きて、この年になった。
懸命に生きて、幸福にしてあげたい人がいる。
何故なら、僕は今日も生きているのだ。幸福な事に。

僕には必ず3度目の死がやって来る。
それをパッケージする事はない。
だから、せめて。
その日が来るまでに、幸せにしてあげたい。
僕の命の意味云々を問うためでなく、命に意味を見出すためでもなく、僕は生きて幸福なのだから。僕の手で出来る事は、出来る限り、出来るだけ、したいのだ。

誕生日、おめでとう。
僕へ。
振り返るのはこれで最後にしよう。
38歳のバースデーはパッケージされたんだ。

前へ。
そう、前へ。