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2F/当番ノート

悪魔について

第23期(2015年10月-11月)

はじめまして、どうも
連載することになりました唐木みゆといいます
絵を描いたりアニミズムや呪術調べてるので初対面の人に言いにくいです。

連載ではぜんぜんテーマが定まらそうなので、つまみぐいで読んでいただけたら幸いです。

今日は「悪魔」について考えてみたいと思います。
結論はありませんし、ただ今のところの考えてみたことにすぎません。
はじめの疑問は、バチカンがいう”悪魔”とウィッチ(現在も各地にいる魔女)がいう”悪魔”に
語義の違いがあると思ったことからぼんやり考えていました。

わりとまじめな話なのですが、この言葉は非常にボンヤリしていて怖いがその概念がよくわからないというところがあって、というのもいくつかの言葉を総じて悪魔と呼んでしまったためなのではないかと思うのですが
つまり
イーブルスピリット(悪霊)
デーモン(デビル)
マーラ(仏教で言う悪魔)
妖怪
憑き物
依存、メンヘラ(の元凶)

などです。

依存やメンヘラぎみの人は、原因を何に見るかにせよ憑き物を繰り返しやすいと私は考えているのでこの列と一緒に考えます。
東洋でいう憑き物であるところの狐や蛇に対して「悪魔」は西洋的な価値観で言われていますが、それらがターゲットにする憑かれる人は全く別の枠組みだとはあまり思えないのです。
イタリアでの悪魔憑きは女性のほうがずっと多いということですし、「あれ、これってメンヘラじゃないの?」
という場合もよくあります。
(ラジニーシというインドのグルで仙人みたいな人は、
「魂は自信や充実によって膨らんだり、落ち込んだ時は縮みもする。
魂が縮むと体との間に隙間ができて、他の霊が入ってしまう。」というような事を言っていましたし)
精神医学にせよ脳科学にせよ言い方はどうだってできるのですがそれが人間の脳内の体験感度が高すぎたために本当に超常的なことが体に現れた、とも言えるし
信仰心が厚いために神に試練を与えられた、と解釈することだってできますから
その真実は受け止め方の問題であって、なんでもよいのです。
心の中が世界のすべて。

ちなみに私は、悪魔憑きの事例なんかとっても怖くて、調べることがないと最後まで読めないですよもう。
ヴァチカンは「悪魔は本当にいる」といいますし、あと、悪魔祓いも今日も毎日どこかで行われています。

私もあとで図にしますが悪魔について、霊的なそういう”なにか”はあると思います。
芸術がちょっと好きな人や登山やサーフィンや自然が好きな人なら悪魔はどうであれ、
好きなものが得も言われぬものであって、霊的なものをなしに感動の全体をつかむのは難しいと思います。

「霊的な何か」はあるんだろうなあ、って言うことは考えにのぼらなくても、体感としては知っているんじゃないでしょうか。

悪魔について
(とってもややこしい図)

1970年台にエクソシストの事件で有名なエミリー・ローズ事件というものがあります。
少女に悪魔が憑いて激闘のすえに死んでしまったのですが、その憑き物は
ユダ、ルシファー、カイン、フライシュマン、ネロ、ヒトラー
でした。
これらがイーブルスピリットなのかデビルなのか、神話時代の人物はどうなのかは
ここでは置いとくとして、ヒトラーが悪魔として憑くのですから現在でいうフセインやカダフィを我々が社会悪として今後いじめすぎて悪の形容詞として使うようになったら、本当に悪霊になって憑いてしまうかもしれない。
すっかり金属みたいな声になって悪魔に追い込んでしまうかもしれないし、
人の心の中に住み着きもするかもしれない。
仏教では「供養」があるし、東洋にはゾロアスター的な二極観がないぶん悪魔を作らないからそのシステムはええなあ、と思います。
キリスト教にもミサやお祈りもあるし、供養が妖怪や堕天使にも有効だとは思っていないのですが、(どちらが優れている、というとかでは決してない)
つまり、
ここまで図を書いたにも関わらずですが、

他者を設定付けることついて、思い巡らせたい。

唐木 みゆ

唐木 みゆ

アニミズムや宗教のことばっか考えてるイラストレーターの、日々のフォークロアなど、なにか。

Reviewed by
はらだ 有彩

こんにちは、はらだ有彩といいます。
アパートメントの“アトリエ”にて日本の民話をテーマにしたコラム「日本のヤバい女の子」を書かせていただいています。
今日から2ヶ月間、唐木さんのコラムのレビューを書けることになり、とてもうれしいです。

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⚫︎《唐木みゆさん/悪魔について》に寄せて

たいていの場合、悪魔はその名の通り「悪」とされる。誰かに「この悪魔!」と叫ぶとき、それは否定的な意味で使われるし、1993年、東京都で「悪魔」という名前の出生届が提出され、物議を醸したこともあった。
では、悪とは何か。「悪」という存在が生まれるには、少なくともふたり以上の存在が必要だ。「良い」がなければ「悪い」は生まれない。悪とは相対評価であり、関係性の名前である。(「絶対悪」という言葉だって、登場人物が一人きりではどうしようもない。)

ミシェル・パストゥローらの「縞模様の歴史-悪魔の布」では、ボーダーやストライプ柄は異端の烙印を押された者のみが着る服、悪魔の服であると考察している。
図と地が交互に入れ替わり、見る人によって解釈が左右される縞模様は、心を惑わすテキスタイルとして嫌悪と畏怖をかき立ててきた。縞模様は長く、マジョリティとマイノリティを区別するために管理されてきた。
惑わす---ここにも、ふたり以上の人間が存在する。私の心は何者かによって揺れ動く。

私は悪魔を見たことはありません。霊もたぶんない。だけど唐木さんの言う「霊的な何か」にエンカウントすることは、日常に多くある。
例えば、美術館。美術を鑑賞するときには、歴史、関係、コンテクスト、あらゆる情報が必要とされる。しかしそれらと関係なく、あるいは大いに関係して、ぱっと見たときに感じる「強さ」という軸が確かに存在するはずだ。
「いい」。「わるい」。「ぐっときた」。「死にそう」。「ダサい」。「好き」。「嫌い」。鑑賞者はこれをごく有機的な言葉でしか表現できない。それは「霊的な何か」に触れたときのエモーショナルな感想だからだと私は思います。

デモーニッシュ、という言葉がある。「悪魔に憑かれたみたいな」「自然の摂理から解き放たれた」という意味だ。「悪魔的」と表現するとき、そこには圧倒的な力に対する憧れが少なからず含まれる。
通り魔ならぬ「通り悪魔」は、ぼんやりとした気分の人に憑き、心を乱すという。怒り、悲しみ、不安、焦り、恐怖、恋慕、色情、さびしさ、喜び。心を乱されるとは、何者かに強い力で揺さぶられることだ。
唐木さんが「心の中が世界のすべて」と書かれているように、「霊的な何か」「悪魔的な何か」は心の中で力強く、自由自在に膨れあがり、縦横無尽に駆け巡る。

私たちはいつも心穏やかでいたい。それが無理ならとんでもない乱暴ものになりたい。悪魔と呼ばれる唐辛子は刺激的だし、小悪魔なんてちょっと魅力的ではないですか。
悪魔然り、トリックスター然り、彼らはいつも楽しそうです。こんなにも心をかき乱しておいてずるい。君の正体が何であっても、あんなにつよい気持ちを私はきっと忘れない。

悪魔になる方法、求ム。

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