あがないへの期待と呪術、またはデザインその奇術による全能

第23期(2015年10月-11月)

タイトルが散らかっているが、
もとはといえば、先日ともだちと長電話してて
「これだけは」という願いを持つときに陥りやすいズレた呪術について考えることになったので書いときたいと思う。

私達は10代の時に、なにか、どーしても叶えたい願い事があった。
寝ても覚めても願っていて、そうすると
「○○断ち」をしてその対価に願いを叶えせしめん、とした。
これはよくあることだ。
願掛けや絵馬の例についても昔から各地の遺物に快挙のいとまがない。
好きな物とか別のものを我慢して他の現世利益に転嫁してそれを享受しようというもので、
私は、ひっそりとこういう呪術はしたことがあるし
特に基盤の弱いなにか、希望の薄い何かに属する人はそう願わざるをえないだろうね。

たとえば、人間的な他の幸福の全てをなげうっても、私の福運を全てなげうっても、
ああ、神さま、どうか、この願いをお聞き届けください。
どうか、
どうか

しかし、
しかしながら

この望みは、
叶わない。
この望みは
決して叶わないでしょうね。

神にとって、契約の理がまったくない。
曲解があるかも知れないが、呪術の効き目がどうこうは置いといて
ようは祈願者にしかうまみがない契約だからだ。
そのため成立しないし一人プレイなのだろう。
それは
「中2の定義は、自分の存在が世界と等価である」(といったのは漫画家の山田玲司さんですが)
という錯覚に由来している。
(生まれっぱなしの人間の素材だけでもけっこうな交換に値するんじゃないか、という憶測も含む)

話が大いにずれるけど、
「デザインの力で○○する!」(またはアートで)というのは聞き慣れてありふれたけど、
これは「どうせデザインは何もできない」という前提から生まれえるものです。
(これは文献の読み解きでよく使われる方法なのだけど)
叫ぶほど、そこには対極がある。

その行為の目的は事象、物事を「かっこよくすること」「啓蒙すること」を通した善行を流行させることが主として語られるが
かっこいいとは、社会での比較や戦略に基づくので、一切の比較を想定しない(無私の)「善行」とは関連せず、
表面的行為のファッションの多数性を獲得し、表面的に事物を動かすことが主体になる。
ので日々、悪徳が形状を変えて、よりかっこよくやって来た時には脆い。

(この原因は「かっこいい」への全幅の信頼、
私も含めてですが「美は善である」と、信仰のように持っている信心に由来しますが
私は「美」と「かっこよさ」は語義が別であり
感動の質量や、同じものを他角度からみた時の言い方でもなく、たとえまれに糸が触れることがあったとしても
全く、まったく、別の軸だと考えています。
ちなみに、これは狭義ですが、
今流行ってる「かっこいい」の実質は「リベラル的だ」の意味でのリベラル対決であると私は考えていますが
リベラルに乗ることが善すぎて、反リベラルに敵を見出してもいる、これは、大多数がどこかへ向かう道の過程かもしれないのですが)

わたしは個々の行為も、その愛も利他心も根を否定するものではないが、
今は状態のあらわれについて書いている。

「啓蒙」が全領域にわたって「善」であることに責任を取ろうとしたら、
行為の主体の領分は、善を語る内的後ろ盾のために、全能と同化する錯覚を起こします。
(啓蒙する人の悟りが開かれていれば問題ないけど、そういうことではない)
道徳は、社会の状態や時世によって常に揺れ動くものだが、
そもそも美を用いることには責任が伴うものだとしても(扇情性や感動のあらゆる手段を使う意味で)
この、行為において、職能の社会活動が
ほんとうにクリエイター(英語だと創造主)になったみたいな最大善のもとに行われるべきかは疑問で、
「デザインの力」を名乗って行われる啓蒙は、ボランティアであっても広告であっても
美の魔法を手にした錬金術士の倒錯で
善性そのものではない。
「個の理念の名のもとによって」行われるべき行為、個からの善性(?かもしれないが、そうでないかもしれない)のあらわれ、活動であったはずのものだと思う。

ところで「理念」について意味のずれがあるかもしれないから補足しておきたい。
理念は基本的には本人以外にはぜんぜん意味分からないものだ。
たとえば多数で共有すべき企業であっても
「水と生きる」「インスパイア・ザ・ネクスト」「お口の恋人」とかの
意味は具体的に分からないし(これらはスローガンですが、広義でここでは理念の顕著な顕れとします)
我々は、それを「はあ、そうですか。」と受け取るほかないし、
それを本当に理解するのは、言葉以上の理念から起こったあらゆる顕れを観察し、糸を辿って、それらを自分の中で
消化したうえ、同化しなければ難しい。
理念は行為や販売媒体そのものの解説ではなく、道徳や精神のことで、
まして個人の理念である生命の使い方は、変質するうえに
言葉になったとしても本人以外には理解しがたいもので、本人の指針になる以外に
他人の理解のために分かりやすく、分かりやすく提供されんがために本質から遠ざかったり
単元的行為だけに要約されたりする必要はないものだと思う。(描く、売る、作る、拡散する、などの直接的動詞で完結させること)
ざっくり言うと、「世界と等価じゃないけど、自分の役割を信じてほしい」です。

それで、オカルトな話に戻るけど呪術や契約の中には自分の潜在的な福運をもって利益と交換するものもあるが
そういうのは、しょーもない霊を相手にすることになるのでヤクザとのやり取りですし
霊媒が言うのは、祈願する対象によって貸付できるものの大きさが違う、というものだから
願いごとの規模が困難で大きければ、大いなる神の貸付を必要とするが、そういう神さまは契約に乗らないし

大いなる神は
「幸あれ」(にっこり)

といった感じのもので
晴れた冬に太陽が暖かい、みたいなすでに個人の比較や関係性とは無関係の、現象そのものみたいなことです。
(神をどの方向から定義するかはどうあれ、おおむね妥当であると思う)

我慢や○○断ちは宣言しても心に留めおいても、宣言、自分との約束としては機能するけど
幸福を享受すればすぐに継続の危機に置かれるので、「満たされない」という意味の、
幸福と同軸上にある、質量問題の大したことないこだわりですが
宣言には、ある程度責任が付随しているぶん、ちょっと心にモッタリ気にかかる程度の重みはある。

ところで何年か前、四国の石手寺というところに行った時、広大な敷地の中のなんのへんてつもないお地蔵さんの横に
看板が掛けてあって、たしかこう、
「自分の能力が認められる世の中になりますように」
であったと思う。
「お願い」の仕方をレクチャーされた感じだったけど、ここに行って本当によかったと思っている。
個人の能力は野辺の花のようなもので、摘み取るのも日陰にやるのも忍びないし、
春が来ても関係ないような環境はかわいそうでしょう。
いずれにせよ、比較が存在しなくても、よく咲きたいのは
草木の本性みたいな感じだと思っている。