アナログとデジタルの境界線

第23期(2015年10月-11月)

FullSizeRenderのコピー

最近特によく聞くようになった“歩きスマホ”の注意喚起。
確かに注意散漫になって危ないけど、気持ちはすごくよく分かるんだよなぁ。

私は週5日働きながら制作活動しているんだけど、職場まで片道1時間45分かかる。都内は高いし制作をしようと思うと狭いし。スタジオのある取手にも通えて都内にも出られるギリギリの場所のアパートで、あと1ヶ月半に迫った賃貸契約を更新するか否かで迷い中。
今の生活だと、とにかく隙間の時間に制作を押し込まないと、思うように作品が進まない。仕事の確認やメールの返信も、通勤時間に効率良くこなせれば帰宅後の制作時間が30分でも長く取れるし、その30分の積み重ねで塵も積もれば方式で作品は出来上がっていく。調べのものや必要な材料の発注だって、電車に乗ってる1時間ちょっとの間でうまくこなしたい。

日本人はよく働いて時間に追われているから、少しの隙間の時間でも有意義に過ごさないと生活が回らないし、それくらい忙しいのが普通な社会になってるから、必然的に何もしないのはもったいない!って気持ちになちゃうんだよね。実際、休みの日にダラダラ寝てると「あ〜、時間を無駄にしてるなぁ」ってちょっと罪悪感を感じちゃったりするしね。
それだけの労働量を求められる社会でありながら、一方的に「歩きスマホ」は危ないからやめろと言う風潮を見てると割り切れなくて、なんだかなぁという気持ちになるのが本音。

私は、MacbookにiPhoneとiPodnanoを持ってるし、制作にiPadは欠かせない必需品だ。もはや画材の一部と言ってもいい。
10年前は、まさか自分がこんなにデジタル機器を使うようになるなんて思わなかった、むしろコンプレックスはプレゼンとパソコンができないことだったくらい。人間、必要にかられれば出来るようになるものね笑。

名称未設定 1

ところで、私の作品の中に出てくる人も、ヘッドギアやメカやケーブルなど、結構デジタル機器をカスタムされていることが多い。
コミュニケーションの多様性がどんどん増えて複雑になっていく中で、近い将来、もう他人との関係をうまく繋ぎ留めていくことが困難だとしたら、いっそのこと人の心もデジタル機器で操作できるようになれば、私たちの持っている漠然とした不安を消し去る事は出来るのかな?
身体と機械は対照的なものとして今まで捉えてきたけど、その境界線を曖昧にするような未来の医療や機器なんかが今頃欧米で研究されていて、いつか使えるようになったりしないかな?
前回の記事に書いた「人間のモーター源は心臓か脳か?」の話とも繋がっているんだけど身体(自然物)と機械(人工物)の間に当てはまりそうなものはもういくつもあって、人口細胞やクローン技術や、人工知能、もしかしたら、人工授精もそれに当てはまるかもしれない。それに、人間には元々、その環境下に対応するための順応能力が備わっている。後はモラルや人道的な理解の問題だけど、これさえ解消できれば、人々はもう何の不安も抱かなくて良くなるのかしら。というようなことが、デジタル機器をカスタムされた人物像のイメージの基盤にあった。

また、ドラッグや新興宗教も人の心を操作する装置のようなものだと思ってる。そう言えば、オウム心理教もヘッドギアを作っていたそうですね。私は“しょうこ”という名前だから、小学校のとき歌とか歌われてからかわれた苦い記憶のあるオウム(でもいじめていたのは松本君という子だったので、本名が報道された後はピタリと止めてくれましたw)、何だか人並み以上の思いを感じます。
いつか身体(自然物、アナログ)と機械(人工物、デジタル)の境界線が曖昧になるような時が来るような気がしてる。
水性と油性の中間の乳濁液(エマルジョン)のような。

そうそう、今日お化粧をしている時に、隣の部屋からMacBookの立ち上げ音(バァーンってやつ。)がして、行ってみたら勝手に電源がONになってたんだけど・・・・心霊現象・・・・?

2015,11,21 藤森詔子