ブルックリンでもいわきでも、どこで暮らせど自分は同じ。

第25期(2016年2月-3月)

土砂降りかと思いきや急に雪が降ったり、観測史上に残る夏の日のような気温を記録したり、ニューヨークは人や街だけでなく、天気までもが忙しい。さらに、ここまで来たら逃げ切れると思っていた花粉症がこっちにもあることを知り、落胆の色を隠せないでいる。しかし、もう見れないかと思っていた桜はニューヨークでも見れることが分かり、春の訪れに胸躍らせている。花見ができる。私の心も、この街と同様に、忙しい。

こうしてパソコンに向かってカタカタしていると、自分がどこにいるのかわからなくなることがある。世界中のありとあらゆる情報を手に入れることも、誰かとつながることもパソコンひとつで出来てしまう。いつでも、どこにいても。だからこそ画面に向かっているだけなのであれば、どこにいてもかまわない。東京にいようが、福島にいようが、ニューヨークにいようが、そこから得られる情報は決まっていて、何も変わることはない。ふと顔をあげたときに見える景色の違いに、気付くことは出来るだろうか。その後、どう動いていくのか。問われるのはそこだ。外を見よう。

どこにいても、私は私でしかない。場所が変われば何かが変わるなんていうのは本当に幻想でしかないと気付いてから早数年。結局、自分自身でしか何かを変えることは出来ない。大きな目標を掲げ、それに向かって突っ走っていたものの、時間に追われ、知らぬ間に良からぬルーティーンが出来て、でもこれでいいのだと、何かしら理由をつけて自分を納得させる。過去によく、そんなことがあったことを思い出す。変えるべきは、場所ではなく、考え方やとらえ方。要は、気持ち。

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私は今ブルックリンに住んでいる。ブルックリンとマンハッタンの間には大きな川があって、マンハッタンに出るには橋を渡らなければならない。マンハッタンに向かう途中、電車の車窓から数分間だけ見えるブルックリンブリッジがとても好きだ。田舎から東京へ出ていくような気持ちでブルックリンから電車に乗り込み、天気や時間帯によって姿を変えるブルックリンブリッジを眺め、マンハッタンに降り立つ。それを見るたびに、自分がニューヨークにいることを思い出し、ここいる理由を思い出す。携帯の画面を眺めていても、下を向いていてもそれは見えなくて、前を向いているときにだけそれは見える。とても大事な、数分間の魔法。

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ニューヨークの街を歩いていると、どこか懐かしさを覚えることがある。福島なのか東京なのか、はたまたこれまでの人生で出くわした何かなのか。自分の中の記憶と目の前の光景が交差する瞬間がある。無意識に探している気がしないでもない。ブルックリンで流行っているというプロジェクトや取り組みを調べると出てくる、環境への配慮、地産地消、大量生産ではなくハンドメイド、などの言葉たちと、それらから生まれる新しいライフスタイルの提案。どれもこれも、震災以降、私の故郷・福島で度々語られ、必要とされてきたことと同じだった。見せ方などの違いはあれど、根っこの部分は似ているように思う。知らぬ間に、何かと何かを重ねて見ている。私は、これまでの自分の経験からしかこの街を見ることは出来ない。しかし、だからこそ出来る何かがあるので、見えるものがあるのではと日々考える。すべては、つながっているはず。

華やかなイメージ且つ響きは抜群のニューヨークに住んでいても、暮らすことは同じ。当たり前に過ぎていく日々の中で、人生にサプライズを引き起こせるのは自分だけなのだ。

さて、画面とにらめっこするのも早々に切り上げて、外の世界へ繰り出そうとしよう。
せっかくこの街に住むと決めたのだから。