愛のかたち−04「絶対の愛」さようなら、初めまして

第26期(2016年4月-5月)

生まれてから死ぬまで。生産されてから消費されるまで。出会ってから別れるまで。初めまして、から、さようなら、まで、の間。この「間」とは時間のことであって、ただ時だけはたしかにここを過ぎていく。絶対者だがその歩みは孤独でなく、時の経過に触れたものは悉く古びていく。人も、パピルスも、納豆も、缶詰も、私たちの記憶も、あなたとの関係性も。
そもそも私が生まれていなくても時は流れる。時そのものは限りなく、一定の速度(仮)で流れている。私たちは存在する間だけその流れの中でじたばたする。時間は私たちのものにはならない。時間が私たちを所有する、何の思い入れもなく。
写真を撮ってささやかな抵抗をしよう。過ぎ去った一瞬を後から呼び起こすのに役立つ。おいしさや温かさ、瑞々しい気持ちも封じ込めて。♪写真になっちゃえばあたしが古くなるじゃない♪(歌詞:椎名林檎)という抗議もあるが、あれは、印刷物が人に先駆けて劣化することを案じているというよりは、実物のあたしは常に更新されているのよ、という漲る自信のあらわれだ。

「絶対の愛」(原題:《시간》(時間)、監督:キム ギドク、2006年)。

主人公、セヒにそんな自信は微塵もない。時とともに古びていくだけで変わり映えのしない自分にたいする恋人の愛は、時とともに離れていくのだ、と信じている。一理ある。彼女は不安に支配され、優しい恋人、ジウを激しく束縛する。
とりわけ根拠のない不安や嫉妬は自己愛の問題でもある。「この顔でごめんね」。ベッドの上で、セヒはてるてる坊主のようにシーツを顔に巻きつける。
この映画は、韓国で盛んな整形手術を通して、自己の分裂と、愛する相手を見失っていく様子を見事に刺激的に描いている。
image
△「恋人たち」ルネ•マグリット

セヒはジウとの連絡を断ち、美容形成外科へ。生々しい手術の映像を見せられても怯まず、顔をすっかり変えてもらい、まずはサングラスにマスク姿でジウの視界に入る。それから行きつけのカフェで、初めまして、セェヒです。これで自分も愛も最新状態にリセットだ。
その間にもストーキングしてジウの恋路を邪魔していた甲斐もあって、彼はセェヒに惹かれる。思い出の彫刻公園で、セェヒとの写真もばしばし撮る。でも、セヒ名義の手紙を受けとると心が揺れる。やっぱり忘れられない。そう、セヒは相当に愛されていたのだ。本人だけが知らなかった。知ろうとしなかった。
ジウの告白にセェヒは怒る。彼を迷わせたセヒも自分だが、セェヒとしては不誠実な扱いを受けたことになる。新しい私こそ愛されると思っていたのに、もういない私だけが愛されている!というか、ここに私はいるのに、この顔ではいけないのか?彼は「私」の何を愛していたのか?
そして、彼女はセヒの顔のお面を被ってカフェへ。ジウの普通過ぎる反応も相俟って、なかなか戦慄させる。

自分。こればかりは、気に入らないからといって乗り換えられるものでもない。全くの別人になれるのなら、セヒはジウにたいする苦しみさえ伴う気持ちだって手放せたはずだ。「常に更新されているあたし」であっても、記憶その他による自己同一性を引き継ぎ、その連続性を受け入れなければならない。断ち切ろうとすればするほど自己は自己に絡みつき、過去と現在の間、現実と理想の間の葛藤を生むことになるのだから。
誰彼構わず恋敵視していたセヒは、恋敵を増やしただけだった。そしてその間で引き裂かれることになった。自分は1人だけのほうが良かった。

ただし、話はここで終わらない。他の作品では見ないほど一般的な人間関係を基本にしていても、実際の社会問題を題材にしていても、これはやっぱりキム監督の映画で、ジウも普通っぽく見せかけて普通の男ではない。彼の愛も普通ではない。私は谷崎潤一郎の小説を連想した。

【以下ネタバレ】

セヒの担当医に喧嘩を売った挙句に泣きついて、ジウもまた整形手術に臨む。さようなら。医師にそのことを聞かされたセェヒは、初めましての日を心待ちにする。2人一緒なら、今度こそ本当に出会い直すことができそうじゃないか。
ところが。初めまして、が続々と沸いてくる!私が出会いたい彼はどれなのか、手を重ねればわかると思っていたのに、身体中触れてもわからない。名前が違えばわからない。私は「彼」の何を愛していたのか?
そして「彼」は人混みの中に消え、本当にいなくなってしまう。ゲームのようなバッドエンディング。
最後のシーンは、私はセェヒの顔を見たときに予想できてしまったのだが、整形はきりがないんだよといいたいのかな。顔を変えても、時をリセットすることも、時の流れを止めることもできない。
何度でも出会い直せるという希望は、果てしなく繰り返されるさようならを含む。そして、さようならは、とり返しのつかないさようならも含む。