愛のかたち−01「サマリア」母性と父性

第26期(2016年4月-5月)

微笑む。抱擁する。音楽を聴かせる。歌う。言葉を伝える。ご飯を食べさせる。花を贈る。新しい景色を見せる。写真を撮る。苦痛から守る。苦悩を共有する。未来へと解放する。姿を消す。見守り続ける。遍在する。
色々な愛のかたち。
主体を超えて他者に働きかけるもの。それがなくては物語は動かない。
そんな観点で、好きな映画のレビューもどきを書きたいと思います。韓国ドラマはあまり好まない私の趣味ですが、韓国映画界の2大巨頭と思っている、キム ギドク監督とイ チャンドン監督の作品について。
映画が気になったら観ていただきたいので、結末にかかわる記述の前に【以下ネタバレ】を入れますが、どこから先をネタバレというべきか、ずれていたらごめんなさい。

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1本目は「サマリア」(原題:《사마리아》、監督:キム ギドク、2004年)。ベルリン国際映画祭監督賞受賞。

高校生のチェヨンは売春をしている。友人のヨジンがその手引きと見張り、客の記録、報酬の管理をしている。目的はヨーロッパへ行くための資金調達だという。
買春客を軽蔑するヨジンは、汚い男たちに綺麗なチェヨンの身体を触られるのが嫌なのだが、本人は行為に意義を感じていて、自分をバスミルダと呼んで欲しいと朗らかに話す。バスミルダは、セックスによって相手を悟りに導いたという、インドの伝説の娼婦らしい。
ある日モーテルに警察が踏み込むと、チェヨンは部屋の窓から飛び降りる。病院に搬送された彼女は気に入っていた客に会いたがり、ヨジンはその冷血なロリコンである音楽家を動かすために身体を差し出すのだが、彼らの到着を待たずチェヨンは死んでしまう。
その後、ヨジンはチェヨンの客の相手をしては、以前に受けとった金を返すようになる。何故か。ところが父親がその現場を目撃する。彼は娘を尾行し、客たちに復讐をする。
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舞台はソウルだけれど、微妙なリアリティの世界観で、寓話を読んだような印象が残る。
特にチェヨンは謎めいた存在だ。彼女のキャラクターは、少女の無邪気さと、同時に絶望を体現しているように見える。自分自身を簡単に危険に晒し、大事にとっておきたい身体もなければ、最期に会いたい家族もいなかった。いつもニコニコしているからといって幸せだとはいえない。ヨジンが不機嫌になったり泣いたりするのとは対照的に。
その一方で、チェヨンは、買春客だけでなくヨジンにとっても母親のような存在だった。微笑みを絶やさず、友人のぶつける淋しさややるせなさを優しく包み込む。
ヨジンは、そんなチェヨンの売春から金銭の授受という要素をとり除き、神話的行為として昇華させたかったのかもしれない。あるいは、失った恋しい友人と同化したかったのかも。
その結果、ヨジンはチェヨンの母性を引き継ぐことになった。

人は単純だ。肌を重ねれば癒される。倫理や法にかかわらず、相手の立場や意図にかかわらず。もはや金銭の授受すらない相手との、関係性のない関係。ヨジンは自らそれに臨み、客たちは、彼女に戸惑いながらも癒される。買春客のための母性などというとかなり気持ち悪い。けれど、彼女もある面ではそのことを通して成長する。

ところで、彼女には父親がいる。妻亡き後1人で娘を育ててきた、優しく過保護な父親で、刑事だ。売買春に神話的解釈など付与するはずもない。
娘に問い質すことはないままストーキングする、彼の苦悩はどこへいくのか。復讐は次第に激しさを増す。ヨジンによって癒された買春客は、その父親によって地獄に落とされる。
せっせと海苔巻きを作りながら父親はヨジンを旅行に誘う。お母さんの墓参りをしよう、と。韓国の墓は山に土饅頭を作ってあることが多い。
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私も殺されたことがある。夢の中で。そして埋められた。とても切なかった、というのがたぶん現実と違うところだ。
私の魂は河原へ向かう。水も空もそこでは赤く、遠くに星々が煌いている。空気はしっとりと暖かい。河岸に1本だけ生えているまだ咲かない曼珠沙華の傍に揺蕩いながら、これで全て終わりなのか、という虚無感は、生前の失敗やままならない思いをもう1つ残らずなかったことにできるのだ、という喜びに変わる。
別の時にまた会えたなら、私を殺すほど憎んだ人ともうまくやっていけるだろう。相手の望んだように愛することができるだろう。私は彼岸へと渡ることもなく消えていく。夢の中の気に入りの場所だ。

山を下って、親子も河原へ出る。車は浅い河に乗り入れて止まる。

【以下ネタバレ】

夢の中の殺人もまた1つの可能性だっただろう。紙一重の選択だったのかもしれない。
父親は娘が自ら身を汚すことを許せなかった。その心の痛みをヨジンも感じていたからこそ、夢を見たのだ。「こんなに綺麗な身体を」とチェヨンにたいして思ったことがあるのだから。
童話の主人公を導く森の妖精のように、親切な老人が宿と芋を提供してくれなかったら。芋を娘が剥いて父親に、その母親のように差し出さなかったら。道中、車のタイヤが嵌り込んだ石を娘が手ずから退けなかったら。河原の石が道となってヨジンを未来へと導く代わりに、親子は旅路の果てに、あちらの世界に埋もれてしまっていたのではないだろうか。
しかし、夢から醒めれば、1つ1つ黄色に塗られた石こそが愛を描いていた。残ったのは感傷でも執着でもなかった。俯瞰図には笑わされた。最後までなんて根気強く、細やかな。