愛のかたち−07「ポエトリー」詩を求めて

第26期(2016年4月-5月)

詩は忘却に抗う。古くは、冥府に下って久しい英雄の武勇や、神々の呪いに抗う人間の物語が口承で伝わり、韻律に乗せて歌われた。聴衆は名誉や愛を讃え、苦難を哀れみ、狂気や破滅をおそれ、登場人物の涙を流すことによって自己の感情を「浄化」した。
歌われる度に英雄たちは蘇る。今でも。
私小説時代がきて、私の物語も時々生じる。たとえばある出会いによって、その瞬間に至るまでの道程が、無為に散らかった過去の上に描かれたとき。ある発見によって、経験の断片が繋がり、自分の存在が主体として継続してきたことを覚えたとき。混沌は文化される。あなたが名前を質してくれたら私は語る。あなたを前に、今ここまでの一筋の物語が生じ、それこそが真実となる。何度でも。
では、物語を失ったときは?言葉を紡ぐ度に否定に遭って、声を出すことが怖くなってしまった季節に。何日も更新されない辞書が朽ちていくのを横目に、打ちのめされ、疲れ果てて、自分自身の輪郭さえ夕闇に薄れてしまいそうなときに。世界をとり戻させてくれるのは他人の言葉だ。綺麗な風景を指してもらえば色を忘れた視界にも花が咲き、血の滲むような思索の告白は眠った知覚を呼び起こす。私は他者を通して感じ、考え、生まれ変わる。
だから、あなたが言葉を失ったときには、私が世界中から言葉を探してきてあげましょう。あなたが命を望むなら、私があなたの物語を歌いましょう。何を引き換えにすることになるかわからないけれど。

「ポエトリー アグネスの詩」(原題:《시》(詩)、監督:イ チャンドン、2010年)は、主人公が一編の詩を綴るまでの軌跡を描く。カンヌ国際映画祭脚本賞受賞。

「世界を見ることが大事です」。ミジャは詩作教室に通い始める。朗らかで、花が好きで、おかしな話が好きな自分は詩人に向いているかもしれないと思い出したからだ。
まず、対象物を良く見ることが鍵だと教わり、試みるが、林檎を見ても木を見てもなかなか筆は進まない。
そんなとき、アルツハイマーの診断を受ける。さらに、2人で暮らしている孫息子が犯罪にかかわっていたことがわかる。
夏の陽射しを散らして輝くゆるやかな川の岸には、少女の遺体が。凡庸な少年たちの集まりには、暴力が。詩作ノートから顔を上げれば、いたたまれない悲しみ、そして寄る辺ない貧しさが押し寄せてくる。花鳥風月など歌えない。感じて、感じたままを書くのだ、といわれるが、ノートは涙のような雨に濡れる。
母子家庭の足下を見て、金の力で犯罪をなかったことにしようとする父親たちに協力しながら、ふと意識を逸らせてしまうミジャの目には何が映るのか。老人の欲望を叶えたことが、金に化けたのは偶然か。被害者に身をなぞらえることになったのは偶然か。
ぽろぽろと抜け落ちてゆく記憶に抗って彼女は何を書き留めるのか。
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この世界を美醜によって詩に相応しいか否かと分けることはできない、というのは1つの発見だ。
詩の朗読会には下品なジョークで人を笑わせる警官が参加している。彼の「シャワーの五段活用」というネタがわかりにくいので残念なのだが、韓国ではshowerをシャウォと発音するので、その後に終止形がウォで終わる動詞や形容詞を連ねた駄洒落だ。素敵に下品で、ミジャは眉をひそめる。
宴会の夜、店の傍にうずくまって泣くミジャを彼は気遣う。「詩のために泣いているんですか?詩が書けなくて?」と。間の抜けたように響く問いかけだが、その通りだった。彼女は綺麗なものにだけ集中することも、現実を引き受けることもできずにいるのだから。ミジャの苦悩に唯一寄り添ったのはこの警官だった。彼は後にいうのだ、「お姉様は格好良い」と。

【以下ネタバレ】

この映画の邦題は、シンプルな原題より親切だ。本質的だが、本質的過ぎてネタバレ級だ。良い面もあるけれど、視覚的に若干ゆるふわなことで、可愛いファッションを纏うミジャの強かさや弱さや苦しみを一層奥に隠してしまっている嫌いはある。

ずっと映してきたミジャの姿を探すようにカメラはその足跡を辿る。彼女の行方を訝る人々を映し出す。孫息子もその母親も、誰もが現実と向き合わなければならない。
悲惨な死と救われなかった魂があり、その事実は変わらず、この映画を始終痛みで満たしている。しかし、打ちのめされた先に、哀れ、哀れと嘆く以外に、詩人ならば見つめるものがあった。失われた言葉。紡がれることを待っている言葉を探し当て、経験を共有し、その思いを掬い上げるとき、詩は生まれる。