愛のかたち−06「シークレット サンシャイン」救済があるとすれば

第26期(2016年4月-5月)

生きていれば許せないことがある。許さなくて良いこともあるけれど、許したほうが楽になれるという。
昔、ある人を許した。自分の落ち度についてその人は罪悪感を持ってはいた。その罪悪感が過小であると納得させることは、できそうになかった。充分な償いも不可能だった。それで私は「許し」を採用した。誰にでも欠点があり過失もあろう、と、心の中で。相当気楽になった感じはした。
そうすると後は自分で処理しなければならない。その人のせいで被った苦痛について、消化できるか。そして忘れられるか。振り返ってはあらゆる角度から分析し、大袈裟に嘆いてみたり、ときには酒の肴にしたりした。活用方法さえ模索した。「試練」や「苦行」といった宗教的アイデアも有力だった。
尤も、苦痛は収束したと思いきや姿を変えてあらわれることがあり、定義されないままなので、処理は何年経っても完了しない。けれど、苦痛に際して原因となった人を思い出す頻度は徐々に減った。私のせいではないがこれは私の問題なのだ、と、花粉症か何かのように考えることに慣れた。他者はどこまでも他者だ。同じできごとにかかわっていても、そのことについて同様に認識することはあり得ない。その人とたまに会っても、最早苦痛の関係者でないような気がすることさえ今ではある。私にとって許しとは縁切りだったのだ。

今回は重い話だ。「シークレット サンシャイン」(原題:《밀양》(密陽)、監督:イ チャンドン、2007年)では、主人公が「許し」に挑戦する。キリスト教徒である彼女にとって、それは諦観でなく隣人愛を動機とするものだ。そして相手との縁切りでなく同胞となることを目的とするこの「許し」のために、彼女は独白でなく宣言を選ぶ。

ソウルから親子の越してきた地方の街の名前をミリャンという。漢字で書くと密陽、シークレット サンシャイン。韓国第二の都市に近く、与党支持者の多い、人口減少中の、実在する普通の街。
ここで主人公シネは幼い息子を失う。私たちは彼女の究極の苦悩を見つめなければならない。チョン ドヨンはこの役でカンヌ国際映画祭女優賞を獲得した。その自然かつ鬼気迫る演技に食われずにジョンチャンを演じているソン ガンホも凄い。

シネは元々神を信じていなかった。が、彼女の弟曰く妻を裏切って浮気をしていた、実際に多額の借金を遺して死んだ夫のことは信じている。その夫の故郷、自分のことを知る人のいないミリャンでやり直そう、とやってきたのだった。
小さな自動車整備店を営むジョンチャンがシネを気に入って、何かと世話を焼いてくるが、彼女は彼を俗物と見下し相手にしない。たしかに彼は洗練されたところはなく鬱陶しい。けれど、シネの虚言にも錯乱にもほとんど動じない大きな人物だ、ということが観ていくとわかる。
ちなみに、韓国では日本に比べて感情表現が率直であり、お節介やつきまといの認定レベルも違うように思う。また、キリスト教徒が日本では人口の1%未満といわれているのにたいして韓国には30%ほどいるので、主人公は自然に勧誘を受けたり教会に導かれたりする。
すっかり神と睦まじくなり、教会への参席や信者たちとの交流によって悲しみが和らぐと、シネは、息子を誘拐し殺した犯人を「許す」ために面会に臨む。難しいことだと牧師は諭しながらも励まし、「心の中で許せば良いのに」とジョンチャンは呟く。

【以下ネタバレ】?

ところが、平等なる神はすでに犯人を許したという。「心の平安が訪れました」。晴れやかに、穏やかに告げられるその言葉がシネを壊していく。
同じ神の子であるはずの彼に齎された恩寵を、シネはなぜ受け入れられなかったのか。許しを宣言するということは、心持ちは一旦相手を裁く立場になり、その上で敢えて愛の共有を選択するということになる。その過程をとることによって、彼女は自分自身を納得させ、憎しみから解放したかったのではないだろうか。それができると思ったときの安らかな、大きな力の内在を感じる恍惚はすばらしいものに違いない。ただし彼女は、厳密にいうと、犯人の許された状態そのものを心から望んでいたわけではなかったのだ。最愛の息子を殺された母親が当然抱くはずの悲しみや憎しみは、誰の名を唱えたところで一朝一夕で解消するものではなかった。
信じなければ、祈りは偽善であり、神はまやかしだ。彼女は自分を化かした神に見せつけるように奇行に走り、ミリャンの人々を憎み、自身を痛めつけ血を流しながら通りへ出て、声を振り絞る。「助けてください」。

シネは入院した。退院する頃には髪が少し伸びていた。ジョンチャンから贈られた服が可愛い。そして案内された美容院で、犯人の娘、チョンアと再会する。少年院から出て美容師になったという。彼女は同じ人物によって人生を損なわれたといえる存在であり、父親のせいで苦労しながらも自分自身の才能と努力で人生を切り開こうとしている、という点もシネと似ているのだが、シネはやはり憎まずにはいられない。美容院を飛び出しジョンチャンに当たる。
許せないという気持ちを誤魔化さなくなったことが快復の1歩かもしれない。

では、結局神はいなかったのか。彼女の求めた救済は実現しないということか。
私は宗教を持たない。少なくとも一神教を信仰してはいない。けれど、この映画の中には、キリスト教的な神の働きを見ることができる。それは天を仰いでも降りてこない。人の口に上ることによってあらわれるのでもない。そうではなく、傷ついた人に精一杯寄り添おうとする、その無自覚な心の中に神がいる。不器用な振る舞いの中に神がいる。
目につかない場所にも注がれ、きらきら光るもの。私たちもきっと誰かを通してあらわれる大きな愛によって生かされているのだ。