「アタシ」のすすめ(ろく)

第27期(2016年6月-7月)

21時30分。
旧校舎の前に立つアタシは、無印の袋を手に提げて腕時計ばかりが気になる。七夕の翌日。

アタシの願い事といったらなんでしょう、それは、思いつかない。強いていうなら、名前を付けて欲しいと思う。自分が何者かもわからないままで生きていくのは、とてもしんどいことだから、誰かに名前を付けられて、ちんけだなんだとそやされても良いし、名前があれば安心する。名前というのはどうやら自分でつけるものではないらしく、物心がついた時には既に名前があるのと同じように、戸籍上ではない存在にも名前を求めるとあれば、他人は自分の合わせ鏡と言うし、誰かが呼ぶ自分の名前が本当なのではないかしら。
自称という手もありますけど、七夕に願い事すら考えつかない自己喪失型17歳のアタシには呼ばれるべき名前もなく、ただそこに存在しているという確証だけが意識の中に決定されていて、当面アタシの存在はアタシ、ということになる。自分が不在のアタシの物語。なんだそりゃ。
昨日アルバイト先で書かされた短冊のおかげで、アタシが本当に望んでいるものとは、はて、なんぞやという、原点に立ち返った思考が空っぽな頭のスキマを埋めて、意外と涼しい7月の夜はあたり前以上に暗い。笹につり下げられた他のアルバイトの短冊には、「来年には絶対自分の店を持つ!」とか「○○に就職したい」とかそんなような、現実に根ざした内容が書かれてあり、願い事というよりもどちらかというと目標めいていて息苦しく、「まじで彼女100人ぐらい作る」と書かれた短冊を発見した時には、ほっとした。そうそう願い事ってこんなもん、と思ったアタシは、「ベンがナンシーとお付き合いできますように。」と一見意味の分からないことをしたため、織り姫と彦星のおせっかいを煙に巻いた。願い事とか、将来の夢とか、ほっといて欲しい。だいたい、短冊に書いた願い事は書いた瞬間から叶わなそう。あ、もう21時35分。

ずっと続いていた机上秘密交信は、アタシが”たぶん、いきます”と返事をしてから、途絶えてしまった。
次の日もその次の日も、そのまた次の日も、返事が返ってくる気配もなしに、アタシが書いた返事は消される事すらなく机の上で空虚を浮かべて、希望の痕跡が悲しい。
結局英語の授業も手に着かず、返ってきたテスト用紙の右上には「32」と赤色で書かれてしまった。
会えないとなったらそれはそれで、残念の内訳の半分くらいを安心が占めて、日々の生活は停滞したまま確実に流れていく。早紀ちゃんはあんなに真面目に勉強しているように見えたのに、返って来た期末テストにはアタシとさして変わらない数字が赤色で書かれてあった。
「今回のテスト選択問題少なかったからな。しゃあないねん。それよりあたしこのナンシーとかいう女の子好かんわ。同級生のベンの事分かってて無視すんねんもん。」
「え、そうなん。全然気付かへんかった。」
定時制の部で出るテストの内容は相当緩く、たぶん中学英語に毛が生えたような内容で教科書の一文がそのまま引用される事も間々あり、今回のテストも例に漏れず、教科書からナンシーとベンのやり取りをペーストしたものがいくつか紛れていた。
教科書の2人のやり取りを早紀ちゃんに見せてもらうと、なるほどたしかに、ナンシーはむやみにベンに冷たい。学校のパーティで知り合った2人の関係は一方的なベンの質問から始まり、ワタシにはそれはわかりませんとナンシーに一蹴されたり、ベンの、君に暖かいチキンスープを取って来て上げようという提案は、ワタシは今冷たい飲み物が欲しいと言われ却下となり、冷たい飲み物を持って来たベンに向かっては礼も言わず、あそこにいる彼は誰ですか、とベンではなく日本人のケンジに興味を示す始末。しまいにはケンジに自分の家までの道のりを事細かに説明したあげく、今度ワタシの家に友達と一緒に遊びに来てくださいと積極性まで披露した。その間ベンはというと、2人の会話に合いの手程度に参加し、ケンジの父親が日本で政治家をしているという話題に対して、よせば良いのに、僕のお父さんは毎朝郵便配達をしていてその姿はとてもクールだ、と父を讃え、2人に無視されたままパーティはお開きとなった。
「な。ナンシー、ガン無視やろ。ケンジの父親が政治家って聞いた途端に目の色変えて遊びに誘うねんもん。すぐ股開きよるでこいつ。」
ベンに幸よあれ。

”22時前 旧校舎に集合 ごめん”

21時42分。
笑い声とも叫び声ともつかない音声が、正門の方角から聞こえて、喫煙所で生徒がたむろしてタバコをふかしている光景を遠くに感じる。普段早紀ちゃんと喫煙所に居る時にはうるさいなんて思わないのに、少し離れた場所から届く声は、その一つ一つが独立した音声として耳に刺さり、却ってやかましい。苦情が出るのも頷ける音。

21時43分。
用もないのにiPhoneを開くと、カメラロールの半年前までの写真を適当に眺め、Twitterが更新されていないか確認し、Safariで2chのまとめサイトを見たりするけど、どれも作業以上の意味を持たずに無感動。緊張のせいか手にべっちょりかいた汗のせいでiPhoneがヌメヌメになるだけ。視界の隅に、光に眩んだ蛾がちらつく。

21時48分。
遅い。22時前に旧校舎に集合だから厳密には別に遅く無いけど遅い。もう会えないだろうと思っていた相手からの返事は、約束当日になって突然机の上に現れて、諦めて覚悟も何もなく能天気に過ごしていたアタシへ、緊張の一括清算を求めた。そろそろ正門からの声も少なくなって来たし、学校が終わるとすぐにバイトか、家へ帰るアタシは、こんな時間まで校内に居る事がないし、見回りでも来て怒られてしまうのじゃないかと気が気でない。この周辺だけ妙に木が多いし、明かりのない旧校舎がアタシに見せる態度は不気味。

21時57分。
紙袋はいじりすぎたせいで持ち手の部分がモロモロになってきた。視線をどこに留めればいいのか分からずに自分の足下ばかりを見て、ストックされたスニーカーの中でも一番汚い白のスニーカーを履いて来てしまい、早くもミソが付いた気持ち。もしかしたら、やっぱり、彼は来ないのかも知れない。
そう思うと少し気が楽になったのと、こうして健気に待っている自分にも呆れはじめて、約束が破られたと確信する前に帰ってやろうと思った。だって遅いし、緊張するし、なにより逃げたいし。今年引いたおみくじにも「待ち人来ず」と書いてあったし。

旧校舎から正門に続く目の荒い砂利道を、足下から出る小気味良い音を聞きながら歩いていたら、前から黒い人影がこちらに向かい、サンダルのぺったん、ぺったん、という間抜けな音を響かせながら進んで来る。その輪郭がはっきりしはじめたら、それは見回りの先生ではない事が分かった。
その青年は、アタシの横を出来る限りの間隔を開けて通り過ぎて5、6歩進んだ後、遠慮がちに足音を止めた。
あ。来てしまった。速度を緩めながら止まり、振り返ると、青年はアタシが持つ無印の紙袋を、眩しいものでも見るみたいに目を細めて見つめている。心臓から、身体を揺らすくらい大きな音がなった。どちらから声をかけるべきかお互い牽制しあって立ち尽くしている、つもりでいたけど、アタシは身を屈めながら、無意識下にじりじり間合いを詰めていたのだった。雰囲気に押されて青年の顔も引きつっている気がします。
「あの、えーと、そうですよね?」
「え?」
え?って言うな。分かっているくせに。
「そのー、あれですよね。アキラ君ですよね。」
「そうですけど。え?」
「アタシです。」
「え?」
「とりあえず、先生来たら困るし、あっち行きません?」
難聴が疑われるほどに聞き返しの多いアキラ君は、あからさまに困惑していて、狐に化かされた百姓みたいな顔で、旧校舎の方へ歩くアタシにとりあえず付いて来た。ぺったんジャリ、ぺったんジャリ。
前を歩くアタシからアキラ君は見えないけれど、延びた影がアタシの前を同じ速度で進んできて、旧校舎の入り口あたりまで来たときには木の影に溶けてしまい、分身を見失ったアタシは、初めてアキラ君の顔をちゃんと見た。
多分身長はアタシと同じくらいだから、まあ、170cm前半で、顔は鼻が特徴的に大きく、メガネをかけたら丁度鼻メガネになりそうな鼻。やせ形だけど頬に肉が付くタイプなのかふっくらして幼く見える。口は小さくて、目は大きいけど一重。アタシに疑いの眼差しを向けている。髪型は個性がなさ過ぎてなんと形容していいのかわからない。あえて言うならザンギリ頭って感じ。パーツはそれぞれ際立っているのに無個性な顔立ちで、制服やブレザーなんか着ているところを想像すると、全校生徒から彼を見いだすのは難しそう。
会ってみたいという好奇心だけの巡り合わせだから、何を話せばいいのか、明かりのない旧校舎が見下ろす中、校内にいくつも出来た影と木を揺らす風の音が、沈黙の濃度を高める。ただ、頭の中には、ごめんなさい。ごめんなさい、という懺悔と、会ってしまった後悔と、さらには緊張がぐるぐる廻って、表情にも出ているはず。アキラ君にはやく喋ってもらわないと、アタシから切り出すのは、なんかちょっと厳しい。
それを察知してか、「クチャ」という唾液の音と共に口を開いて、アタシを見た。
「えーと、あ、そう、はじめまして。いまちょっと思った事、言ってもいいですか。」
「はい。だいたい何を言いたいか分かりますけど。」
「女の子やと思ってたら、男やってびっくりした。」

なにを隠そう。また一つ告白をさせていただくと、アタシは正真正銘の男である。お股には、”おちょんちょん”ではなく”おちんちん”がぶんぶら、ぶら下がっていて、間抜けた名前の一物は、エッチなものを見ると情けないくらい固くなります。隠しているつもりは無かったのです。お話するタイミングを逸しただけで、もし機会がなかったなら、言わないでおこうとすら思っていました。アタシは男であるけれども、今まで語って来たように正真正銘アタシでもあるわけで、アナタにお話をする時は、アタシという一人称を使わなければなにか、虚栄心の方が強く出てしまい、なにもお話ができないような気がしたのです。自分の事を話すときには、アタシという誰かの口を借りて、いますぐ茶化してしまいたい。なにも言えぬなら、女の口を借りるがお似合い。変でしょうか。変ですよね。

「もう校門のところに先生が立ってて、もうすぐ門閉めるから早く出ろって。俺入られへんかと思ったんやけど隙ついたらすんなり入って来れた。夜の学校ってこんな感じかあ。」
アキラ君はそんなに暑くもない夜なのに、Tシャツの襟首をつまんで揺らし、はたはた自分の顔を扇いでいた。
「ごめんなさい。すいません。」
「え。なにが?」
「女の子が来ると思って来たんやろうから。」
「いや、それは俺が勝手に勘違いしてただけやからいいよ。たしかにびっくりしたけど。よく考えたら男か女か聞いて無かったもん。」
そうは言ってもあからさまに残念そうで、自分の事をアタシと呼ぶアタシの事情には一切触れようとせず、腫れ物を扱うように優しい。旧校舎の裏はグラウンドになっていて、定時制の授業のために付けたままにされた真っ白な照明は、暗闇に慣れた目に染みて、目の中の全部の色がちかちかする。ここは先生にバレそうだからという理由で、旧校舎一番奥のお勝手口みたいな場所、その建物の窪みの小さい階段に腰を下ろした。
「いざとなったらこの下に隙間あるからここに隠れられるな。」
というのを聞いて、いつまでここにいるつもりだろうと思った。

2人で話す事といえば他愛なくて、家がどこにあるとか、兄弟はいるかとか、アキラ君の名字は日本で一番多い佐藤だとか、受験勉強の話とか。アタシが、なんであんなに返事が遅かったのかと聞くと、夏のインフルエンザにかかって学校に来れなかったと言っていたけど、多分嘘だと思うし、別にそれが嘘である事を隠そうとする素振りも無かった。ふーんと気のない声で返事をしたら、無印良品の袋の中から、今日早紀ちゃんに貰った博多旅行土産の「にわか煎餅」と、付属でついてくる、たれ目で面白い顔のお面を、誕生日プレゼントの名目で渡した。
「今日会うと思ってなかったんで大したもん用意出来ませんでした。たまたま鞄の中に入ってたんで。どうぞ。」
「ええ!気ぃ使わんで良いのに。ありがとう。あ、それと敬語じゃなくていいから。ありがとう。」
すぐにそのお面を被ったアキラ君は、アタシに向き直り、「イケてる?」と言った。
うんイケてる。思った以上に面白い。それを伝える代わりに、大げさに笑った。

アキラ君は作家志望で、今は受験で忙しいけど、大学に入ったらたくさん小説を書くとしきりに宣言していて、その前フリが終わると、紺色のだらし無く提げたリュックに手を突っ込んで中からクリアファイルを出し、思い出深そうな目つきで眺めた後に、はい、とアタシに渡した。
「それ、こないだ言ってた高2の時に書いた小説。人に見せたことないけど、見てもらいたくて持って来た。短編2つで一つの話になってるねん。」
「へー、ありがとう。でもごめん。ボク普段本読まへんけど大丈夫かな。」
「いいねん。そういう人にも見てもらいたいし。ていうか、アタシ君、普段は自分の事ボクっていうんやね。普段からアタシかと思ってた。」
「うん、普段はボク。ごめん。」
「なんで謝るんよ。」
アキラ君に会ってから罪の意識が中々消えず、謝ってばかりいるように感じたアタシは、その事に対してもまた謝りそうになって危ない。会話の主導権は完全にアキラ君が握っていて、想像していたよりもよく喋る人である。とりあえずちらっと読んでみてというので、冒頭文を読んでみると
”その昔、命の価値は今よりもずっと軽かった。”
から始まる文章で、何か中世が舞台の話かと思いきや、主人公らしき人物は外国の高校生で、名前は「ベン」。そのガールフレンドとして出て来た女の子の名前は「ナンシー」。
「え!あ。これって、英語のNEW CROWNに出てくるベンとナンシーのことじゃない?」
「うわ。よく分かったな。おんなじ教科書使ってるんや。小説の題材探してる時に教科書見てて、たまたま2人のやりとりが面白かったから。ナンシーが実はベンの事が好きやったら良いのになあって思って。そういう話。」
冒頭文からどんな道筋で洋物学園恋愛ストーリーに仕立て上げたのか、その手腕こそ謎だけれど、とにかく驚いた。アタシが昨日短冊にしたためた適当な願い事は、アキラ君の小説の中で叶っていたのだった。願い事も捨てたものではないのかも知れない。

「アタシ君も、そのアタシっていう一人称にこだわるきっかけになった本、持って来てる?読んで見たいねんけど。」
「持って来てるけど、本じゃないし、多分読んでも意味わからんと思う。あと怖い。おどろおどろしい。」
「なにそれ。夏の夜やし丁度いいやん。」
アタシはその文が書かれた経緯、元々奇妙な反省文にドライヤーを当てると下から文字が浮き出て来た事、よく読むとそれは同じアルバイトに対する告発文である事を説明して、紙袋から呪いの反省文、「アタシのすすめ」をアキラ君に渡した。ずっと鞄に入れてあるから、紙が劣化して折口が破れていて、いかにもな感じ。
「うわあ。気持わる。文字の感じとかヤバ。」
眉間にしわを寄せて、暗いから全然見えへんと言い、待っていたスマートフォンのフラッシュを当てながら真剣に読んでいる。そうすると顔の掘りが深くなったようで、ちょっと男前に見えた。

二枚の原稿用紙を読み終えたアキラ君の顔は相変わらず険しく、その顔で「わからない。」と一言呟いた。
「途切れ途切れやけど書かれてる意味は分かんねん。告発文っていうのも何となく。でも、何がそんなにアタシっていう一人称にこだわる理由になるかは全然分からへん。あと怖すぎ。なんでこんなにカタカナまじりなん。」
ぼろぼろの反省文をまた四つ折りにして、アタシのスニーカーのあたりに視線を置いたまま返された「アタシのすすめ」は、紙袋の中にストンと落ちた。
「うーん。なんていうねやろ。ボクは普段あんまり自分の事を口に出せるタイプではないねんけど、アタシって言うと、なんか、別の人間の身体を借りて言いたい事が言えるっていうか、自分ではないから言葉に真実味がなくなって責任が薄くなるっていうの?そんな感じかなあ。最後の方に同じようなこと書いてなかった?こういうのなんて言うんやったけ。えー、口寄せ。」
「口寄せって。NARUTOみたい。」
アタシの答えの歯切れの悪さに失望したのか、ふーんと言ったまま前屈姿勢になって手でカエルと蛇の中間みたいな化け物を作っていた。
「そっかー。」
「うん。」

22時41分。
意外と時間は経っていて、正門から生徒の声は聞こえない。見回りが来るかと思っていたけど、それもまだ来ない。夜の暗さは変わらないけど、冷やされた夜の風が肌を触って少し寒い。左隣に座るアキラ君も、さっき反省文を見せたあたりから突然口数が減ってしまい、うーん、とか、はあ、とか、何か思慮深げな息を漏らすだけ。やっぱり読ませない方がよかったのかも。気持ち悪いと思われたかしら。
アタシがチラチラ腕時計を気にしている様子を見たアキラ君は、「あ、帰る?帰りたい?」と、平静な顔の下に焦りみたいなものを含ませながら、両手を自分の脇の下に挟んだ。ちょっと寒いんだと思う。
「いやちょっとお腹空いてきて。なんか食べに行く?」
「うーん。」
はっきりしない態度で、こんどは両膝を抱えて身体を前後に揺さぶり始めた。何が気に食わないのかわからないアタシは、お得意の「なんとなくスマホいじり」で沈黙を誤摩化したら、隣でリュックを探ったアキラ君は急に、にわか煎餅のお面を取り出して顔に付けた。
「わ。なに。やっぱり思った以上に面白い。何回みても思った以上に面白いなそれ。」
自分に言い聞かせる意味も込めて笑ったアタシの顔を、多分お面の奥で見つめているアキラ君は、数秒時間の開いた後に衝撃のひとことを放ち、心臓の鼓動で視界が揺れた。
「なあ、チューしてみてもいい?」

心臓は鳴る。鳴る。急に身体が強ばって、2秒くらいの周期で勝手に震える。アキラ君はなぜアタシが男であるのにこんな事がいえるのか、もしかしてゲイなのか。すごい、童貞ってこんなこと言えるの。このためにずっともじもじしていたの。
面白い顔のお面の男の子は、アタシの二の腕あたりを一瞬撫でて、「いや?ごめん。」と謝った。多分、アキラ君は決めていたのだ。今日、自分の誕生日を終えるまでに、あわよくば童貞を捨てるつもりでいたのだ。自己都合なその妄想は、今、目の前にいる人間が男でも、いくつかの葛藤を超えて、目標達成のための道具として見る事が出来るようになったのだ。きっとそうに違いない。
恥ずかしい事に、すでにアタシの”おちんちん”は固くなっていて、股間には、はしたない膨らみ。体は正直ってやつ。アタシが無言で顔を近づけたら、そのまま磁石みたいにお面の顔が引き寄せられて、目を瞑ると一瞬だけ、唇同士が触れ、またすぐ離れた。

「アタシさんって中性的な顔してるよな。」
「俺女の子が好きやけど、アタシさんなら大丈夫。」
つい今までただの世間話をしていた事なんて忘れて、何度も何度も、口づけとしては短すぎる遊戯をして、遠慮がちに身体に触れたりした。お面の向こうはどんな顔をしているのかわからなかったけど、その言葉が嬉しすぎ、唇が電極みたいになって、アキラ君の唇はアタシに電流を流す。
「なあ、アタシさんってやっぱりゲイ?理論武装してたけど、アタシにこだわるのってやっぱりそういうことやろ?」
耳元で囁かれて、それも身体がぞわぞわする。口から漏れてきたぬるい息が顔にかかるけど、なぜか甘いような匂いがする。アタシの両肩を掴んで引きはがすと、
「あー、ヤバいー。」
と言いながら前屈みになり股間のあたりをもぞもぞ触り始めて、履いていたハーフパンツをずらした。そこにはアタシと同じようにこんもりした山がある。次に何を言われるのか分かるから、それが怖いような、待っていたような、とにかく身構えてしまう。
「触って欲しい。」
心臓は相変わらず鳴っている。このままだと死ぬんじゃないかという速度で。アタシの身体の血液を巡らせる。触ってしまっていいものか、触りたいけど。
「どうしたん?やっぱり気にしてるん?」
突然、パイロットが地上に帰還して、ゴーグルを外すような仕草でお面を頭上に上げた。気にしてるって、なにが。
「え?」
「いや、一応言っとくけど、俺キスはこれが初めてじゃないから大丈夫やで。触ってもらうのとかも、エッチにはカウントせえへんから大丈夫。だから気にせんでいいよ。」
優しく諭すような口調。はじめ何を言われたのか全く飲み込めずに、アキラ君の”おちんちん山”を見ながら呆然と考えていたら、途端に意味が分かって、嫌な事を言われているという認識が増殖した。アタシが、アキラ君のファーストキスや、初めての逢瀬が同性愛者の自分で良いのか、気に病んでいると思っているのだ。自分から手を出して来たくせに、責任だけはアタシに丸投げ。
衝動的に立ち上がったら、極めて冷静を装った顔で無印の紙袋をひったくって、さっき貰ったベンとナンシーの恋物語をアキラ君に突き出した。なになになんでなん、と半笑いと困惑が混ざった目つきは、仮面を被っていなくても、にわか煎餅にそっくり。その顔が決定的にアタシを苛立たせて、いや、愛おしさにも近かったけど、後には引けず、
「おもんないんじゃ!お前の小説!」
と自分でも驚くほど腹の底から声が出た。
読んでもいない小説の感想を述べたら、持っていたクリアファイルを投げつけて、走ってその場から逃げ出したのだった。なんかちょっと、アタシの方が泣きそう。

校門をよじ上ろうと足をひっかけている最中に後ろから声をかけられて、飛び上がるほどの驚き。振り返るとと見知らぬ警備服のおっさん。こんな時間に何をしとるんや君は不法侵入やでと、アタシを咎めて、その視線はアタシの股間に集中しているのに気付いた。
「わしは警備のモンやけど。君ぃ、なんかやらしい事しとったんちゃうかあ。行くとこないか知らんけどこんな所でしたらあかんでえ。蚊ぁに刺されてもっとちんちん腫れるでぇ。」
笑っている。これだからおっさんは嫌だ。
「すいません。不法侵入とかじゃなくて、旧校舎の近くで授業サボってたらいつのまにか寝てしまって、気付いたら誰もいなかったんですよ。それで出ようと思って。」
「さっきそっちの方見たつもりやねんけどなあ。まあええわ。なんせ校門なんかよじ上られたら、警報なっておっちゃんの仕事増えるねん。開けたるからはよ帰り。」
おっさんに校門を開けていただいて学校を出ると、目の前の信号が丁度青だった。渡ろうとしたところで、またおっさんの声。
「君ちょっと待って。一応名前だけ控えさしてんか。」
「あ、はい。3−Aの佐藤アキラです。」

何があんなに許せなかったのか、今考えるとちょっと分からない。学校の最寄り駅まで歩いていたら、ついさっきまで行われていためくるめく夢の世界の事を思い出して、アタシのテントはキツく張ったまま。人通りも増えて来て、少し前に屈んで歩く。最後まですれば良かったと後悔したけど、もう遅いし、自分の初めては何かと気にするくせに、人の初めては聞いてもこないから。これで覚えている限り、アタシのファーストキスのお相手は、にわか煎餅となったのだった。
あ、アタシは結局、自分が女の子として行為ができない事が嫌だったのかも知れない。あれ、アタシは女の子になりたいのだっけ。なりきるだけでは、足りないのだっけ。
「アタシにこだわるのってやっぱりそういうことやろ?」
アキラ君に耳元で囁かれた瞬間を思い出して、また背中がぞわぞわして、駅に着いてもソレは中々治まらなかった。もう23時31分。