断章1(食べるということ)

第29期(2016年10月-11月)

tori

恋人と暮らすようになって、手料理を作ってもらうことが増えた。一人暮らしが長かったからか、手料理を作ってもらうということはどこか新鮮に感じられる。

手料理を食べるという体験には、外食をしたりお惣菜を買って食べたりするのとは違った充足感がある。実際、手料理を食べると、少ない量でも満腹になるように感じる。
あらためて思うのは、私たち人間にとっての<食べる>という体験は単に物理的に食品を取り込むだけのことではない、ということだ。誰の作ったものを食べるのか・誰と食べるのか・どんな場所で食べるのか・どんなシチュエーションで食べるのか……こういった要素まで含めなければ、私たち人間にとっての<食べる>という体験は成り立たないように思うのだ。
「サプリだけ摂っていればいい」という考えは私にはどこか寒々しく感じられるのだが、それは<食べる>という体験からこういった要素をすべて捨象してしまうからのように思う。

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「優しさが染み込んだ味」という表現がある。しかし、料理に染み込むのは優しさだけなのだろうか。

食事をする時、時折こんなことを想像する。
例えば、この牛肉は、この牛が食べた牧草からできている。その牧草は、その牧草が生えている土地から養分を吸収している。その土地は、その土地に埋葬された無数の死体が土に還ったものだ。そして、その土には、死体が生前に抱いていた想念が染み込んでいる。だから、この牛肉を食べるということは、かつて生きた他人たちの想念をも取り込むということだ。
もっと言えば、この牛が死の間際に抱いた想念や、この牛を屠殺した人の想念、牛肉を運送した人の想念、そして牛肉を販売した人の想念など、無数の想念がこの牛肉に染み込んでいて、それらを今から取り込むのだ――

「いただきます」と手を合わせる時、私は食べ物に染み込んでいるかもしれない想念のことを少しだけ思う。そして、それらが清らかなものであるようにかすかに祈る。

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先日、東京・久我山にレンタルスペースをオープンした。お店の正面には昔ながらの鶏肉屋があり、夕飯のお惣菜を時折買いに行く。近所付き合いということもあってか、女将さんから1品おまけしてもらうこともある。

どういうわけか、食べ物を贈られるということには、他のものを贈られるのとは違った喜びがある。食べ物を贈るという行為が親愛の情を示すものとして捉えられるのはなぜなのだろうか。
食べることが快楽に直結しているからということもあるだろう(「食事をする」ということがセクシュアルな含意を持つのもこのためかもしれない)。しかし、より根源的には、食べることが生命の維持に直結しているからであるように私は思う。生きるためにはなにかを食べなければならない。だから、食べ物を贈るということは「あなたにまだ生きてほしい」という思いを表現することであると思う。これはこの上ない親愛の情の表現ではないだろうか。食べ物を贈られることの喜びとは、私が生きることを肯定される喜びなのかもしれない。

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すべてが合理化される未来が来るのだとしたら、その時には現代のような食事のスタイルはなくなっているかもしれない。すべての栄養摂取を点滴でさっと済ませて(すべての人に画一化された点滴が等しく配当される日には「今日の点滴も”おいしい”ね」と見つめ合って笑うのだろうか)、「かつては食事などという野蛮な文化があったのだ」と語られる日が来るのかもしれない。

その日の光景を想像すると、私はどこか薄ら寒い心地になる。私はまだ、食材を調理し、作った料理を誰かと一緒に食べるという文化を愛している。そして、食事というものに込められている様々なものをまだ感じていたい。たとえ、この思いが”未開人”が抱いている”野蛮な”思いに過ぎないのだとしても。