断章2(無能さについて)

第29期(2016年10月-11月)

bill

私のレンタルスペースの下の階には、洋服や靴などのお直しをしてくれるお店が入っている。時折、ハンマーを振るう音が下から微かに聞こえてくる。いつも慎ましやかに作業をされていて、さながら工房といった雰囲気がある。

壊れたものを修理して使い直すということにどこか惹かれるのは、大量生産・大量消費・大量廃棄のこの時代に生きているが故のノスタルジーなのだろうか。

「大切に使う」ということは、この時代において一種のタブーといった感すらある。この時代においては、「壊れたら捨てればいい、どうせ新しいものを買えばいいのだから」というのがスローガンだろう。新たな消費を生むためには、消費者は適度にモノを廃棄してくれた方がいい。モノを大切に使うということは、ともすれば消費行動を抑制しかねない。この時代の雰囲気は、モノをただの<モノ>として扱うことを私たちに暗に強いる。思い出だの愛着だのといった「面倒」なものを捨てて、何の意味も持たないただの<モノ>として(それ故に代替可能なものとして)モノを扱うこと――それが現代という「市場」に生きる私たちに課されている行為規範なのかもしれない。

だが、私たち人間はそもそも「面倒」な――言ってみれば「無能」な――生き物ではないだろうか。「忘れ形見」や「長年の相棒」といったように、私たちはモノに様々な意味を付け加えてしまう。この余剰が、この「面倒くささ」が、私たちの生に彩りを与えているのではないか。
モノを単なる<モノ>として扱うためにこの「面倒くささ」を切り捨てていけば、私たちの生はどんどん均質になっていく。皮肉なことに、モノを単なる<モノ>として扱っていけば、やがて人間までもが均質な<モノ>になっていく。なににも思い入れを持たず、なににも意味づけをせず、ただ合理的に判断するだけの<モノ>。その時には、もはや「誰であるか Who/Qui/Wer」が問われることはなく、単なる属性の集合としての「何であるか What/Quoi/Was」しか問われなくなるだろう。

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この社会において、私たちは有能であることを求められる。より多くの利益を生み出すべし、より多くの価値を生み出すべし――私たちに求められる有能さとは、すなわち生産能力のことだろう。
ところで、ドイツ語において、「ポテンツ Potenz」という語は、能力とともに性的能力を意味する。何かを生み出すものとしての能力――この社会が求める能力とは、このような意味での能力である。だから、この社会において、私たちはポテンツ(能力=性的能力)を持つことを求められ、「インポテンツ Impotenz」(無能=性的不能)であることは蔑みの対象となる。この社会では、私たちは(何かを生み出しうるという意味において)「性的」でなければならないのだ。

(余談ではあるが、生殖能力が十分でない者や生殖を行わない者、あるいは生殖から外れた者がこの社会で忌避されるのは、「新たな人間を再生産できない」ということが「新たな人間を使役し消費する」という「経済活動」[「経済 Economy」の語源は「Oikos 家」の「Nomos 秩序」である]を遅らせるからではないだろうか。この社会の経済を支えるために、私たちは「正しく」性的でなければならない――「この社会における性規範は経済的である」とすら言えるのかもしれない。)

この社会において、私たちは自らの掛け替えのなさを証明するために「有能」であろうとする。まったく皮肉なことに、有能さを自らの掛け替えのなさにすればするほど、私たちは経済活動を支える単なる部品となり、むしろ掛け替えのなさを脆弱なものにしていく。なにしろ、部品はいくらでも代替可能なのだから――より優秀な部品が出てきたら取り替えればいいし、壊れたら捨てればいい。有能になればなるほど、私たちは掛け替えのなさを、自らの固有性を、つまり「誰であるか」を失っていくのだ。

だから、私はこう言ってみたい。私たちに掛け替えのなさを与えるものとは、むしろ「無能」であることではないだろうか。何かができないこと、何かをうまく作れないこと、何かが劣っていること――そのような無能さ、そのような生産能力のなさこそが、私たちの掛け替えのなさを担保するのではないか。この意味において、私たちの「誰であるか」は「性的」ではない。うまく生産できないという無能さこそが、私たちの掛け替えのなさを形作るのではないだろうか。

(生殖を避けることによって、聖職者は「生=性」という「経済」の外に出る。聖職者は徹底的に「無能=インポテンツ」であり、そのことが聖職者を「反社会的」な存在者にするとともに、彼/女らの「誰であるか」の強度を比類なきものにする。)

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「教養として役に立つ」や「人生の満足度を上げる」など、芸術に有益さを見出そうとする言説が聞かれるようになって久しい。このような言説は、芸術を単なる商品に変えてしまう。「この曲を聞けば頭が良くなる」「この映画を見れば会話のネタになる」――ここには経済の力学が働いていると言える。費用対効果を考えよ、投資に対してどれだけ利益が出るのかを考えよ、と。

ところで、圧倒的に打ちのめされるような美の体験は、それ自体として完結したものではないだろうか。例えば、息を呑むような芸術を前にして、私たちは言葉を失う。そのなんとも言えない手触りは、言葉や理屈でもって消化しきることができない。つまり、芸術は言語や理屈といった「貨幣」に換金できない。芸術作品には、どこまでいっても自分で触れてみるしかない。それ故、芸術は「流通」することがない(貨幣が流通することを前提とするように、言語や理屈もまた他人に理解されることを前提としているのだから)。だから、芸術はそれ自体として完結していると言えないだろうか。
それ自体として完結しているものは、もはや何も生み出さない(いわば、芸術には生殖器官がない)。芸術があり、美の体験があり、ただそれだけがすべてである。そして、何も生み出さないものは「経済」の外に出てしまう。芸術は「経済」を中断するのだ。この無益さ、「無能 Impotenz」、生殖能力のなさこそが、芸術の美と崇高さを担保するのではないだろうか――まるで聖職者に神聖さが宿るように。

そして、この無能さにこそ、私は人間の「人間らしさ」を見出したい。何の能力=ポテンツも持たないこと、何ら生産性のないこと、「遊び」であること、弱くて劣っていて出来が悪いこと、社会に適合しないこと――こういった「無能さ」こそ、私たちがモノや商品ではなく、1人の<人間>として、つまり「誰であるか」を問いうるような存在者として私たちが存在していることを確保しているのではないだろうか。

昨今、芸術や人文学に対する風当たりが厳しい。風当たりを厳しくしているのはもっぱら経済的な要求である。「芸術や人文学は経済的な利益を生まない」と。なるほど、いまだかつてない芸術作品を作ることは、未解読の古文書を読み解くことは、かつての思想を批判検討することは、確かにそれ自体としては経済的な利益を生まないだろう。だが、だからといって経済的な利益を生むものだけを残し、経済的な利益を生まないものを切り捨てていけば、結局のところ、私たちは自己否定をすることになると思うのだ。私たちが「無能」な存在者であり、それ故に<人間>なのだということを――

[この文章を書くにあたっては、田崎英明『無能な者たちの共同体』から着想の多くを得た。ここに感謝の意を記しておく。]