断章3(詩について)

第29期(2016年10月-11月)

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いつだって秋は不意打ちのようにやってくる。レンタルスペースの窓を開けて、「もう秋か」と呟いてみる――そうすると、「もう秋だ! L’automne, déjà!」という一節がたちまち思い出される。そして、ほとんど自動的に「しかしなぜ永遠の太陽を惜しむのか mais pourquoi regretter un éternel soleil」という一節が続けて口から出てくる。そう、ランボー『地獄の季節』の「アデュー Adieu」。

猫を見れば「おいて、私の猫 Viens, mon beau chat」(ボードレール「猫 Le chat」)と言いたくなるし、乾杯の時には「孤独に、暗礁に、星に Solitude, récif, étoile」(マラルメ「乾杯 Salut」)と言いたくなる。生きることと言えば「ゴヤのファースト・ネームを/知りたいと思うことだ」(飯島耕一「ゴヤのファースト・ネームは」)し、死ぬことと言えば「お前は私の死だった Du warst mein Tod」(ツェラン「お前は Du warst」)……

10代の頃から、私は詩に触れてきた。私は良い読み手でも良い書き手でもなかったが、しかし詩はいつも私のそばにあった。そのためか、私にとっては、多くの概念は詩に結びついている。

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もし誰かに何かを伝えたいだけであれば、詩を書く必要はない。ただ手紙や評論などを書けばいい。むしろ、詩がまさに詩である所以は――そして詩が芸術である所以は――伝達という機能を超えたところにあると思う。

かつて、マンデリシュタームは、そしてツェランは、詩を「投壜通信 Flaschenpost」に喩えた。いつか誰かに読まれることを願って、瓶に入れた手紙を海に投げ入れるようなものだと。だが、詩を書くという行為が投壜通信を投げるようなものだとしても、詩の作品そのものは単なる手紙を越えている。詩の作品そのものに宛名はいらない。たとえ宛名が書かれているとしても、宛名は詩の本質に関わらないのだ。

詩が伝達という機能を超えていくものだとすれば、詩からメッセージを読み取ろうとする試みはどこまでも不毛なものでしかない。なんらかのメッセージを伝達しているように見えるということ自体が、詩にとっては単なる表現の手法に過ぎないのだから(手紙のような文体で書かれた詩が成り立つように)。

ある意味では、詩は何も言わない。言葉を使っているとしても、その言葉は誰かに何かを伝えるための言葉ではない。それはどこまでも独白のようなものなのだ。詩を読む時には、そこからメッセージを読み取ろうとする態度をいったん傍に置く必要がある。そうして初めて、言葉が表現しているものに耳を澄ますことができる(詩の読みづらさはこういったところにあるのかもしれない)。

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はたして詩に「正しい」解釈はあるのだろうか。

詩人がどれだけの意図を込めたとしても、詩はその意図を伝達することから超え出ていってしまう。言葉はどこまでも詩人の制御から逃れていく。「ツェラン」という語が人によってはアウシュビッツを連想させるように、「知る」という語が文化によっては肉体関係を意味してしまうように、言葉は絶えず他の概念と連結していってしまう。たとえどれだけ詩人が意図を説明したとしても、この連結を止めることはできない。だから、詩にはたえず新たな解釈をする余地がある。

自分の書いた言葉がまったく意図していなかった言葉を呼び起こし、予想もしていなかった詩が出来上がっていく――詩を書く人間であれば、きっとこのような体験をしたことがあるだろう。言葉が表現してしまうものは、詩人の意図などよりもはるかに豊かである。

詩に「正しい」解釈があると想定する時、私たちは言葉の持っているこうした豊かさを縮減してしまう。そして、どれだけ縮減しようとしても、言葉は縮減しようとする手から逃れていく。詩を読む喜びは、言葉のこうした自走を追いかけることにあるように思う。

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だからといって、人は恣意的に詩を読もうとはしない。むしろ、人は「正しい」解釈を見つけようとする。

これは詩の仕掛ける罠だ。なぜなら、詩はたえず新たな解釈に開かれているのだから。花が蜜蜂を誘うように、まなざしが情事を誘うように、詩は自らを手に取り読解してみよと誘惑してくる。だが、「これが正しい解釈だ」と思った時には、詩はもはや異なった解釈をちらつかせている。永遠に誰のものにもならない誘惑者、読み解けそうなのにいつまでも読み解けない暗号――詩は決して読み尽くされることがないのだ。

しかし、それだからこそ人は詩を読むのかもしれない。さながらオルガスムスの直前の中断がさらなる快楽を期待させるように、詩はさらなる解釈を人に追い求めさせる。永遠に絶頂に向かっていく快楽、しかし永遠に絶頂に至ることのない快楽、永遠の”プラトー”。詩を読むということには、はてしない快楽がある。

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詩は、そして芸術は、それに触れた人の体験を編み直してまったく異なったものへと変容させてしまう――セザンヌの絵画が視覚的体験を変容させてしまうように、そしてドストエフスキーの小説が人間観を変えてしまうように。ファンタジーは現実よりも強力である(エンデにとっての「ファンタジー Fantasie」)。本来、芸術に触れるというのは危険な行為なのだ――芸術に触れて無傷でいることはできない。たったひとつの作品が、ある人の、そしてある社会の価値観を決定的に変えてしまうことだってありうるのだ。

芸術は社会にとって厄介者なのだ。芸術は現実を変容させてしまうのだから。プラトンが『国家』で論じたように、いずれ詩人は国家から追放されるかもしれない。とりわけ、すべてが物理的に語られる時代にとっては、芸術は真っ先に滅ぼされるだろう。なにしろ、芸術は人に想像力を与え、「ドライ」でいることを妨げるのだから。「油絵など所詮カンバスに画材を塗りたくっただけのものだ」「小説など読んだって金にならない」――そうやって芸術は居場所を剥奪されていくだろう(合言葉は「それが何になる?」という言葉だ、そうやってすべてを金や地位などに還元していこうとするのだ)。

(「芸術を追い求めるのは非効率的だ」――しかし、このような言説が広まった時に得をするのは誰だろうか?誰にどんなメリットがある言説なのか?)

いまさら芸術を愛するのは「愚者」のすることなのかもしれない。だが、そうだとすれば、「賢者」とはどういう存在であるのだろうか。金や地位などだけをひたすらドライに追い求める人間が、はたして賢者なのだろうか。伝統的に、賢者は世俗から離れた老人として表されてきた。私たち人間は、むしろ金や地位などとは異なったところに叡智を見てきたのではなかったか。私は芸術を愛する「愚者」たちに賛辞を贈りたい。彼/女らの聖なる愚かさよ!