断章4(光と闇)

第29期(2016年10月-11月)

light

久我山には学校が多くあり、夕方には下校する学生たちを数多く見かける。日が沈んで光から闇に切り替わっていく黄昏時、下校する学生たちの姿を見ながら、過ぎ去ってしまった子ども時代のことを、そして私が「大人」と呼ばれる年代を生きていることを思う。

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子どもが持っているような明るさや無邪気さを大人に見ることはそう多くない。成長の過程で、子どもは様々な物事に触れていく。そこで見聞きするものは必ずしも明るいものばかりではない。物事には様々な存在の思惑が絡み合っているのだということ、正論がいつも通じるわけではないということ、人には狡猾さや昏い情動などが宿っていることもあるのだということ……どこかの時点で、子どもはいわば闇に触れるのだ。これは大人になるための通過儀礼であるとも言える。闇に触れた時、子どもは往々にして病み、持ち前の明るさや無邪気さを失っていく。そして、この世界に愛や希望といった光を見いだせなくなっていく。子どもはいわば黄昏を経験するのだ。

私たちの誰しもが、多かれ少なかれこの通過儀礼を経験しているだろう。この通過儀礼を経験しているからか、大人の世界では闇を強調するような言説が多く聞かれる。状況を悲観的に捉えること、何の希望も持たずに生きること、愛だの夢だのといった「明るい」概念を冷笑すること――こういった姿勢を取ることが「現実的」であるとする空気が大人の世界には充満している。

だが、自分のことを棚に上げれば、こうした「現実的」な人間たちは卑小だとも感じられる(そして、私こそ途方もなく卑小な人間の1人だ)。偉大さを感じさせる人間は闇に打ち克っている。慈愛、親切心、誠実さ、高潔さ、信念、自己規律、赦し――偉大な人間はこうした「徳」を養い、闇に触れながらも光を見出す。この難行をやり抜く人間を私たちは偉大だと褒め称える。

いったん闇に触れてしまった人間たち(つまり、大人たち)にとっては、光を見出すよりも闇に流される方が簡単なのだ。希望を持つよりも絶望する方が容易であるし、信じるよりも疑う方が容易である。この世界は闇へと引きずり込もうとする誘惑に満ちている。この誘惑に抗うためには、確固とした信念が、勇気が、高潔さが、自己を律するだけの意志が、つまり諸々の徳が求められる。偉大な人間は誘惑に打ち克つ強さを身に着けている。「明るい」概念を冷笑し、自己中心主義とシニカルさとを至上のものとして信奉する人間は、結局のところは闇の誘惑にただ流されて負けているだけなのだ。そういった人間は掃いて捨てるほどいて、個性的であるどころか凡庸ですらある。真に難しいのは、闇に触れながらも闇に打ち克つということなのだ。闇に触れるという通過儀礼は、闇に打ち克つことによって合格とされる。

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闇に触れる前の子どもたちは光の世界に留まっている。この世界に光を見出している偉大な人間は、ある意味では子どものようである。例えば、イエスは「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう」(マタイ 18:3)と言った。大人は子どものような精神を取り戻す必要があるのだ。

とはいえ、大人は子どもに戻れるわけではないし、ましてや幼児退行すればいいという話でもないだろう。「幼な子のようであれ」というモットーを都合良く捉えて、無責任さを無邪気さだと言い張っている人間は、単に愚かであるとしか思われない。単に子どもに戻れば人間として発達できるという考え方は、ウィルバーが指摘した「前後の混同 Pre/Post Fallacy」に陥っている。パウロは「物の考え方では子どもとなってはいけない」「悪事については幼な子となるのは良いが、考え方では大人となりなさい」と戒めている(コリント第1 14:20)。事実、子どもには、大人のような自己規律や寛容さなどが欠けていることだってある。私たち大人は、大人なりの知恵を保ちながらも、子どものような精神をもう1度習得する必要がある。ただ単に光に戻るのではなく、闇を知った上で、しかも闇に触れながら、なおも光を見出すことが求められているのだ。このような強さを私は「成熟」と呼びたい。

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これまでの連載において、私は「人間の危機」とでも呼ぶべきものに触れてきた。経済偏重・科学偏重の現代において、人間というものが危機に瀕しているのではないか、と。しかし、私は読者を絶望に誘いたいわけではない。なぜなら、絶望こそが闇を招くのだから。世界や人間に対して希望を失い、愛を失い、絶望に堕ちることにより、私たちは人間を忌避し、非人間的なものを礼賛し、ひいては人間を滅ぼしていくのだから。だから、私は読者に希望を持ってほしいと思っている。だが、それはこの世界から目を背け、単なる空想の中に浸っていくような希望ではない。それでは闇への誘惑に対して単に無力である。むしろ、この世界を刮目して直視し、非人間的なものに誘おうとする荒波の中にまっすぐに飛び込んでいきながら、なおも愛と光を見出さんとするような、諸々の徳に基づいた希望である。

時代はますます闇に満ち、夜の深みの中に入っていく。だが、この夜の深みの中だからこそ培われる強さがある(闇は誘惑者の仮面を被った偉大な教師である――「闇さえなければすべてうまくいく」という発想は私たちをただ弱体化させるだけだ)。この夜の深みにただ堕ちていくことも、またこの夜の深みから目を背けることも、そのどちらもが、時代が私たちに課している未曾有の通過儀礼に対する敗北である。天使たちが(幾度目かの)終末のラッパを吹く前に、私たちはこの通過儀礼に合格せねばならない。