断章5(誇りについて)

第29期(2016年10月-11月)

pride

適切に誇りを持つことは難しい。

度を過ぎた誇りを持つことは、人を傲慢さへと向かわせる。傲慢な人間は、何かを見下したり、何かを否定したりする。要するに、自分を持ち上げるために他を下げることを必要とする。だが、他を下げることを必要とする誇りは、他を必要としている以上、必ず他に左右されることとなる。状況が変われば、その誇りはたやすく崩れてしまいかねない。そして、傲慢さは他を冒涜する。キリスト教が傲慢さを大罪の1つとして戒めてきたように、傲慢さは克服されるべきものである。

かといって、誇りを持たなさすぎることは、今度は人を卑屈さへと向かわせる。卑屈さは心身を蝕むだけではない。卑屈な人間はたやすく悪に走る。また、卑屈な人間は、自分を否定することを通じて、自分を成り立たせるもののすべてを、つまり世界全体を否定する。さらに、「何かより劣っている」という理由で生じた卑屈さは、傲慢さを生み出したのと同じ図式――「この世には優劣が存在する」という図式――から生み出される。だから、卑屈さは裏返された傲慢さであるとも言える。裏返されているだけに、卑屈さは傲慢さよりも質が悪い。

それでは、私たちはどのように誇りを持てばいいのだろうか。

結果や成果、地位やステータスといった外的なものに誇りを持とうとすれば、すぐさま傲慢さと卑屈さが誘惑してくる。言ってみれば、上には上がいるし、下には下がいる。上を見れば卑屈さに転びかねないし、下を見れば傲慢さに陥りかねない。かといって、「これまで何を為したか」あるいは「これから何を為し得るか」といった自らの能力に誇りを見出そうとしても、能力の間に優劣をつければ傲慢さと卑屈さの餌食になる。他のものを必要以上に上げたり下げたりしないのが大切だと言うのは容易だが、それを実践することはそう容易ではない。

ところで、私たち人間は可塑的であり、いつからでも変化しうるという可能性を持っている。望めば、私たちはもっとずっと多くのことを為しうる。それは誰だって同じことだ。万人に備わったこの可能性には、私たちは無条件に誇りを持ってもいいのかもしれない。いつからでも遅くないという希望を持つことこそが、私たちが持つべき誇りなのかもしれない。

(逆に、悪とでも言うべきものは、この可能性を縮減し、人間にはとにかく限りがあるのだと吹き込む。そして、生まれ持った能力やステータスなどによってすべてを決めることにより、一切の可塑性を失った徹底的な格差社会をもたらそうとする。一見快適には見えるが、何の変化も希望もない世界。セグメントされた無数の小集団がたえず反目しあい、たえず優劣を競い合う世界。あえて神学的な語彙を用いるならば、悪は神を地に引きずり降ろそうとする。神の御業には限界があったのだと、そして神よりも強力なものがあったのだと証し立てようとし、神の栄光を傷つけようとする。またもや神学的な比喩を用いるならば、私たちが多様に変化していくということは、神の栄光を讃えることでもあるのだ。)