断章6(許しについて)

第29期(2016年10月-11月)

forgiveness

およそどんな宗教も、許すことの大切さを強調してきた。捻くれた見方をするならば、かくも強調しなければ人は許すことを忘れてしまいがちだということなのかもしれない。事実、憤りや恨みに身を任せるのは簡単だ。多少洗練された人間であれば、許したふりをしてみせる。だが、心の中で燻っている憤りや恨みから自らを完全に解き放つというのは、ふりをするだけよりもずっと難しい。

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伝え聞いた話でしかないのだが、ダライ・ラマにこんなエピソードがあるらしい。

とある講演会でのこと。質疑応答の時間に、夫を交通事故で亡くした女性がダライ・ラマにこう質問した。「夫を轢き殺した相手をどうしても許せないのですが、それでも許さなければならないのでしょうか?」と。ダライ・ラマはこう答えた。「そうです!では次の方」。

乱暴なまでの一刀両断だが、ダライ・ラマがこのように答えたのは頷けることでもある。この女性に語る機会を与えてしまえば、いかに許さないことが正当なのかをいくらでも語ったことだろう。そして、そうすればするほど、この女性は許しから遠ざかっていっただろう。だから、乱暴ではあっても話を打ち切ったのは、宗教者として素晴らしい対応だったと私には思われる。

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だが、こうしたエピソードを前にして根本的な問いを立てることができる。「そこまでしてどうして許さなければならないのか?」と。この問いにここでなにか答えを出せるなどとは露ほども思わないのだが、あえて実利的に述べてみたい(実利的な答えだけがすべてだとも思わないのだが)。

憤りも恨みも、その感情を感じている側を蝕んでしまう。どちらの感情も気分の良いものではないし、溜め込めばやがて心身に悪影響を及ぼすようになる。そして、皮肉なことに、憤りや恨みを抱いている相手の側はたいてい悪いことをしたとは思っておらず、往々にしてあっけらかんとしているものだ。だから、憤りや恨みを抱いて心身を蝕まれるのはたいてい自分だけなのだ。それだったら、さっさと許してしまった方が得ではないだろうか。

また、憤りや恨みを抱くということは、相手の側に憤りや恨みを抱かせるだけの支配力があることを認めることでもある。そして、憤りや恨みを手放せないということは、その間ずっとその相手に自分の精神をコントロールさせることでもある。憤りや恨みを持てば持つほど、その相手から精神的に離れられなくなっていくのだ。だから、皮肉ではあるが、憎い相手から精神的に離れたいならば、まずは相手を許す必要がある。

要するに、許さない方が損なのだ。もっとも、許さないことによって相手をゆすり続けられるというメリットもあるかもしれない。また、許さないことによって周囲の同情を集め続けられるというメリットもあるかもしれない。だが、これまたあえて実利的に言うならば、許しを選ぶ方が周囲からの評価を集められるのではないだろうか。

このように書いているからといって、私はすべての人に許しを強要しようとは思っていない。ただ、許さないことによって身動きが取れなくなっている人を見ると、許しの可能性をまずは実利的に考えてみてもいいのではないかと思うのだ。

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(この社会は許しよりも制裁をますます求めている。罪には罰を、攻撃には報復を。これは合理的な対処であるように見えるのだが、その反面、私たちはますます不寛容になり、憤りと恨みに蝕まれてますます退廃していく。とはいえ、許しや寛容は、ただ相手に良いように利用されることではない。もし自分を良いように利用させるならば、それは私を成り立たせている一切のものに対する冒涜になる。罰や制裁、恐れに基づくことなしに、いかに平和を打ち立てるのか?それは単なる理想論に過ぎないという見解もあるだろうが、しかし理想論すらも忘れ去った時、人はいわば石化するのだ――私たちの持っているはずの精神=霊 Geistとは何なのか?)