断章8(私たちの未来)

第29期(2016年10月-11月)

sacrum

このコラムも最終回を迎えた。このコラムでは、食に始まり、芸術・詩・光と闇・誇り・許し・分離と、雑多な話題を扱ってきた。しかし、これらの話題を扱った背景には、私にとって常に共通のテーマがあった。それは、大袈裟ではあるが「私たちの未来」である。最後に私の思うところを物したい。

繰り返し触れてきたように、これから科学・医療・経済はますます発達していく。それに伴って、私たちの生活はますます快適になっていく。このこと自体は素晴らしいことだろう。問題は、それらに携わる私たち人間の側がどこまで成熟できるかだ。大いなる力を手にする者には、その力を使いこなすだけの成熟が求められる。子どもに凶器を与えれば、とんでもない事故を起こしかねない。これと同じことだ。科学・医療・経済は私たちに大いなる力を与えるが、私たちの側が未熟であれば、悲惨な結果を招くことになるだろう。また、快適さを手に入れるのであれば、当然のことながら自制心が求められる。自制心を欠いた人間に快適さだけを与えれば、怠惰で自堕落な生活に陥っていくだけである。科学・医療・経済が私たちに大いなる快適さを与えるのであれば、それにふさわしいだけの自制心を持っていなければ、私たちは堕落と荒廃の道をひた走ることになるだろう。

その力が大いなるものであればあるほど、またそれがもたらす快適さが大きなものであるほど、それは私たちにとっては罠にもなる。科学を悪用すれば、私たちは未曾有の戦争兵器を生み出し、未曾有の戦争状態を社会にもたらすだろう。医療を悪用すれば、医療を用いて人民の生命を自在にコントロールできるようになるだろう。経済に溺れていけば、「経済の発展」という大義名分の下、無数の人間を奴隷同然に扱うことになるだろう。これらはほんの一例である。こうした事態が世界にもたらされるのであれば、それは進化というよりは退化であるように私には思われる。私たちにとって必要なのは、こうした罠に陥らないだけの成熟ではないだろうか。

これから私たちが用心しなければならないのは、「合理性」や「合理的」という言葉の下に何が語られるか、である。「合理性」や「合理的」という言葉を聞くと、私たちはなんとなく納得してしまう。だが、本当に大切なのは、「それがいかなる価値基準にとって合理的なのか」ということである。「社会の発展を考えるならば、役に立たない人間はさっさと殺してしまった方が合理的」「経済的な利益を考えるならば、利益を生まないような文化はすべて捨ててしまった方が合理的」……確かにこれらは特定の価値基準からすれば合理的なのだが、問題は、その価値基準がはたして絶対視されるべきものなのか、ということだ。私たちが罠にかかれば、「合理性」の名の下に、食が、芸術が、詩が、つまりは諸々の人間的な文化が滅ぼされていくだろう。そして、数字にならないものをすべて切り捨て、また数字の上がらないものをどんどん切り捨てる、という「合理的」な社会がやってくるだろう――はたしてそれがいかなる意味で「合理的」なのかということは問われもせずに。

現代の世界を見回してみれば、この罠を乗り越えているどころか、ますますこの罠にかかっていっているように見える。経済的な要求の下に、人々はいがみあい、対立しあい、ますます混迷を極めていっている。諸民族間の対立も、解消するどころかさらに溝は深まっている。生命倫理の課題はいっこうに解決せず、また進歩する技術に私たちはいつも振り回されている。私たちの時代は分離と闇に満ちていっている。

だからこそ、私たちはあらためて「人間」とは何かを考え直す必要があるように思うのだ。

私たち人間は、歌い、踊り、笑い、夢を見る。私たち人間には、文化があり、芸術があり、思想がある。私たち人間は、どこまでも愚かで、弱く、非合理である。そして、私たち人間には、誇りや許しに代表されるような諸々の徳があり、神聖さがあり、そして愛がある。新しい時代にふさわしい在り方に刷新しつつも、こうした人間の姿をどこまでも擁護していくことこそが、私たち人間に課されている試練なのだ。

とはいえ、その試練にいかに打ち克っていけば良いのかは、いまだ私たちには見えていない。喩えて言えば、私たち人間はこれまで見たこともない巨大な龍と対峙している。これからの1,000年でこの龍はますます強くなっていくだろう。ヨハネの黙示録であれば、あの天使が龍と戦った。しかし、比喩的に言えば、あの天使ですら私たち人間をどのように支えればいいのかまだ手探りなのだ。私たちは、あくまでも手探りでこの試練に打ち克たなければならない。

久我山に開いたレンタルスペースに、私は「サクルム Sacrum」と名付けた。ラテン語で「神聖さ」である。自分や世界の神聖さを忘れないでいてほしい……そのような思いを込めてつけた名前である。スペースには様々な人が来て、様々な活動をしている。講座を開いている人もいれば、メイクのレッスンをしている人もいる。仕入れてきた服の展示会をしている人もいれば、会社の会議をしている人たちもいる。私はその人たちの神聖さに支援したいと思っている。

さあ、ここで筆を擱こう。いつかどこかで、見知らぬあなたを、そして見知らぬあなたの持つ神聖さを見ることを、私は楽しみにしている。