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2F/当番ノート

夢で逢えたら

当番ノート 第30期

皆様こんにちは。HALです。いかがお過ごしでしょうか。クリスマスも無事終了し、お正月がもういくつか寝るとやってきますね。皆さんにとって2016年はどのような年だったでしょうか。

話は変わって初夢について。一富士二鷹三茄子と言いますが、いくら初物の茄子は縁起がいいとは言っても、一体どんな夢の中で茄子は登場するのでしょうか?富士山や鷹はなんとなくわかりますが。初夢に茄子が来たら、実は一番レアで縁起がいい気がします。

夢から覚めた時、夢の中で今までどこにいたのか、何をしていたのかをなんとなく覚えていることがあります。しかし、それを説明することは大変困難なことでしょう。あえて夢に全体像のようなものがあるとして、その説明を試みるなら、あくまでこれは私のケースについてですが、夢の中で私はゲームのFPSのようなパースペクティブをもちながら、次々と切り替わるシーンを違和感をさほど感じることもなく駆け抜けていくといった感じです。なぜ突然こんな話をするのかというと、実は最近夢判断に何かとても興味をもったので云々ということではなく、先ほど目が覚めた時、何かすごく印象的な夢を見たという記憶はあるのですが、それが何だったのかさっぱり分からなくて少し悶々とした、しかしある種の心地よさを今感じているからなのです。

もちろん芸術と関係した話をしたいのでこの夢の話を持ち出したということもありますが、まずは夢についていつも私が考えていることを少し書いて見たいと思います。

先ほど、私は夢を見ている時、ゲームのFPSみたいなパースペクティブを感じていると言いましたが、その視点は現実における私の視点と同じものです。もちろんあくまでそのパースペクティブの位置に関してですが。私たちは、その視点を起点として、私たちの前に開かれた世界に関わるわけですよね。この意味において、夢の中でも、「私は私だ」と言うことはできるのではないでしょうか。では、この夢の中で、その私が動き回るための世界を作っているのは誰?何?なのでしょう。それも、私ですね。正確には私の脳がその世界をプロジェクションしていると言うことになりますね。とりあえず私はこのような感じで夢を見ていますし、自分の夢についてこのような理解をさしあたりもっています。

以上のような話で私の夢について考えてみると、夢の真っ只中で、私は、「一人称的な私」とその他、あるいはその環境世界と言う「もう一つの私」が同時に存在していることになります。一人称的な私は、私自身でありますから、コントロール可能ですし、何か夢の中でイベントが発生すると、そのイベントのネガ・ポジ具合に応じて、ダイレクトに自分の感情が左右されます。個人的には、夢の中での喜怒哀楽は、現実世界のそれよりも激しいように感じます。では、その一人称的な私以外、つまり私が見ている夢の環境世界を作り出している私とは一体何なのでしょうか。少なくとも、このパートに関してはとてもコントロール可能だとは思えません。時として、このもう一つの私は、私の最も見たいシーンをたまに上映してくれることもありますが、その反対に、ありえないほど悲惨な場面や、何とも残忍な場面を平気で、それも予告なしに上映し始めることもあります。さらにこのもう一つの私は、非常に気まぐれに夢の場面を文脈を無視していとも容易く切り替えます。いったい幾つの断片によって一晩のうちに見る夢は構成されているのでしょうか。きっと一つの映画のシーン数など軽く超えてしまうでしょう。

私がすごいなあと感心してしまうことは、私の中に私、あるいは私のパートでありながらも一人称的視点の私のコントロールの外にあって、さらにその一人称的な私を翻弄するほどの影響力を持つ私の存在を確認することができるということです。このコントロール不可能な私、「夢」、あるいは無意識?といったものは、アート史の中においてシュールレアリスムの主題として様々なアーティストによりそのイメージが表現されてきました。例えば、このような表現に関して、ダリマグリット、あるいはマックス・エルンストの作品を思い描くことができます。これらの作家の作品をご存知の方も多いと思いますが、彼らの絵の中には、現実的にはありえないような物や形、そしてその組み合わせで溢れかえっています。それらの作家の作品を私の夢の話と関連付けて見るならば、私の夢の中で環境世界を作り出すもう一つの私がそれらのアーティストによってビジュアライズされていると言えるのではないでしょうか。ただ、相当格好良く描かれていますね!本当にあんなイメージの夢を彼らは見たのでしょうか?(笑)。

ところで、個人的にもう一つのシュールレアリスムと呼びたい作品群があります。この場合、別に特定のアーティストを指して彼らのことをシュールレアリスと呼びたいわけではないのですが、それはどのような人たちかと言うと、私の夢の中に出てきてしまう作品を作ったアーティストたちのことです。例えばの話ですが、すごく明快にお話しすると、これは、すごく怖い幽霊の絵や映画を見てそれがそのまま、あるいは少し形を変えて私の夢に登場してしまうというケースのことです。これも、シュールレアリスムの仲間に加えてやってもいいのではないでしょうか。。。と、少なくとも私は思っています。普通は幽霊なんて願わくば夢に出てきてほしくないですよね。なのにちゃっかり出てきてしまう。そして、そのようなものが自分の夢に出て来てしまった場合、多分それは映画なんかで見たものの数倍は恐ろしいものになっているのではないでしょうか。

『攻殻機動隊』の劇場版で、草薙素子が「自分の脳を見た人間なんていやしないわ。」と言っていますが、全くその通りです。私たちは普段、自分自身が理性のコントロールの下で統合された一つの存在としてアイデンティティーに自信を持っているわけですが、よくよく考えると、私は今まで自分の体の内側を覗き見た試しがありません。一度アジの開きにでもなって見ない限り。別にそれは草薙少佐の言う自分自身の脳だけに限った話ではありません。身体的な側面で見て見ても、自らの血の流れ、細胞ひとつひとつが自分の中でどのように動いているのかを知ることは決して容易ではないのです。心臓だって別に意図的に動かしているわけではありませんよね。なのに今この瞬間も自分の意思とは無関係に動いています。

私たちは、それらが私たちの中で動いている、生きているということを単なる知識としてだけではなく感じることはできます。感じることはできるのですが、それは私たちが感覚的に感じ取ることができる範囲においてのみ感じることができるということです。先ほどの夢の話に戻るならば、私が見る夢をプロジェクションするもう一人の私という存在を、私たちは夢の中での体験を通してのみ知ることができます。それは私ですが、私にとってまるで他者のような私です。自分の意図とは全く関係ないイメージをプロジェクションしその場面を勝手に編集しまっくっているわけですから。よって、私は、このもう一つの私の意図が全くわからないのです。何を考えているのか、何を求めているのか。なぜそのように振る舞うのかということが。もうしかしたら、普段、覚醒している私が要求していること、望んでいることとは全く別の、あるいは正反対のことを欲求しているかも知れません。先ほど身体的な他者についても考えて見ましたが、自分が摂取したいと思っているものと、自分の細胞が欲求しているものは一致している場合もありますが、また極端に異なっている場合もありますね。その隔たりが広がれば広がるほど、気づかぬうちに体を壊し病気になってしまいます。

少し話が広がりすぎてしまったので、もう一度、私がここで考えてみたいこの夢の中に登場するもう一人の私と芸術の関係に話を戻しますが、夢に出てくるもう一人の私は、一人称的な私とは全く異なる受け取り方を自らの体験に対してするわけですね。幽霊の話で言えば、それは一人称的私が忌み嫌い、できるだけ退けようとするのに対し、もう一人の私がそれを夢の中で再度増幅してプロジェクションするわけです。これは、ダリやマグリットのように自分の内側で起こるシュールな出来事を作品として外側へとアウトプットするのではなく、むしろ、何か作品を見た人の内側、あるいはその脳内でシュールな出来事を再プロジェクションすることなのだと言えなくはないでしょうか。もちろん幽霊やお化けのような恐怖などの強い負の意識を喚起する場合(今回はただわかりやすい例えとして幽霊の話をしました)に限らずそのような夢の体験を引き起こす作品があるのであれば、そして今ここでお話ししていることがアーティストによって多かれ少なかれ最初から意図されているのであれば、それは、私たちが普段アート作品を受容するあり方とは随分異なったやり方であると言うことができるでしょう。

別に私はここでマインドコントロールやサブリミナルについて何か語りたいのではありません。そうではなく、アート作品は誰のために向けられているのか、そして、アート作品を受容する私たちは誰なのかについてただ考えて見たいのです。もちろん私は、一つの統合された人格として生きているということに疑いを懐いてはいませんが、そうであっても、私が私として構成されている要素について一つずつ注意を払って見ていくと、それは私にとってのまごうことなき他者であり、彼らに未だかつて一度も会ったことも見たことすらもないのです。私の覚醒の中で、それらの数え切れないほどの様々な要素は美しいシンクロを描くように見えますが、そうであっても、それらが夢の中でのもう一人の私のように、私のコントロールを超えた私であるという潜在性を示す時、私の中で、私の経験に対する数え切れないほどの異なる理解や解釈が存在しているのではないか、ということを想像せずにはいられないのです。もうしかしたら私の中に、私自身も知らないような解釈や理解のもとで構成された全く異なる小宇宙が無数に散在しているのかもしれません。

よく、自律神経にいい音楽や音などと称して、小川のせせらぎなどを延々と流すことがありますね。個人的にはこれを聴いていても特に何がどうということはあまりないのですが(笑)、もうしかしたらいわゆる耳で聴くという音楽的な聞き方とは違う、全く別の体のパートに聴かせているのかもしれませんね。それについて詳しくはわかりませんが、私は、先ほど述べたもう一つのシュールレアリスム作品というアイディアにこのようなイメージをもっております。第二回の投稿で皆様に見ていただきました映像作品「BEHOLD」もそのような意図の下で作った作品です。「私は今あなたに話しかけています」。しかし私が意図するのは、「あなたではなく「あなた(もう一人のあなた・他者としてのあなた)」にです」。「今あなたにアクセスするために扉をノックします、目醒めてください」。作品にはそのようなイメージをできるだけヴィジュアライズしながらも、同時に、見ていただいた方の中にいる他者にアクセスできないか、という意図が込められています。

皆さんはどんな夢を見ますか。楽しい夢、それとも悪夢?そして、夢から覚めた時、どのように感じるでしょう。ああ、もう少し夢の余韻に浸りたいとか、ああ、夢でよかった、と感じることができるのであればデカルトが唱える「我思う、ゆえに我あり」は有効にあなたの中で働いている証拠です。しかし、それは本当に一時的な覚醒の中に自らのアイデンティテーの根源を求める、なんともかわいいい一人の私にすぎないかもしれないという可能性を誰が否定できるでしょうか。

HAL

HAL

HAL

アーティスト
ポーランド、ポズナン在住
現在は映像作品を中心に作品制作を行っています。
2015年からポズナン芸術大学に籍を置いています。

Reviewed by
美奈子

なんでこんな怖い夢を見なくちゃいけないんだ、という理不尽な思い出はみなさんあると思います。
HALさんの連載第3回は、そんな夢を作り上げる、わたしの中にいる、わたしではない誰かの存在に迫ります。

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