「私は発達障害なのか?」問題に直面した生きづらめなオトナ達に贈る長い手紙、あるいはひとりごと

第30期(2016年12月-2017年1月)

「私ってADHDなのかもしれない…」
「発達障害の診断って、どこで受けられる?」

最近、そういう相談、あるいは悩みの開示を受けることが多くなった。

「ふーん、そっか。どうしてそう思った?」

相談してくれる人たちは、なんというか往々にして「真面目」だ。
責任感も強く、自分の職場や仕事に対しても一生懸命取り組む。
でも、なぜか仕事がうまくいかない。少なくとも本人はそう感じて苦しんでいる。

真面目であるゆえに、人一倍努力してなんとか乗り切ろうとする。
「これはきっと、自分のビジネスパーソンとしての努力や工夫、成長が足りないからだ」
自分の責任問題にして「頑張って」解決しようとするわけだ。
それでもやっぱり、仕事のエラーが頻発する。
自己肯定感は下がり、だんだんと心身の不調につながっていく。
「決して自分は怠けているわけじゃないのに、どうしてうまくいかないんだろう。もしかして…」

悩みに悩んだ状態で出会ったのが、「発達障害」という概念。
冒頭のように相談をしてくれるのは、このような経験・逡巡の末であることが多い。

僕は、「ふーん、そっか」とは言いつつも、けっこう他人事じゃない心持ちで彼・彼女らの話を聞いている。

なぜって、他でもない僕自身が、「発達凸凹さん」の一人だからだ。

僕はいま、LITALICOという会社で働いている。「障害のない社会をつくる」というビジョンのもと、多様な個性を持った人々が、一人ひとり自分らしく生きられる社会に向けて、学習支援や就労支援、インターネットメディア事業などを展開している企業だ。僕は、発達が気になるお子さんが通う学習支援教室「LITALICOジュニア」での指導員や新卒採用等を経たあと、現在は発達障害に関するポータルサイト「LITALICO発達ナビ」の編集長を務めている。

あまり「支援者」「被支援者」という区分けは好きではないのだけど、「発達凸凹さん」の僕が、世間的には「支援者」の側に位置づけられるようなお仕事をしています。

「発達障害」は、先天的な脳機能の発達の偏りと、その人が生きる社会環境との相互作用の中で、社会生活上の困難さが生じる障害の総称である。医学的な診断名としては、注意欠如・多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラム障害(ASD、いわゆるアスペルガー障害や高機能自閉症を含む)、限局性学習障害(LD)といったものが代表的である。

人間誰しも違った個性を持っているのが、発達障害といわれる人たちの場合、注意集中、興味関心、読み書き能力といった特性の凸凹が著しく大きいことが多く、「平均的な発達」を前提とした社会慣習やコミュニケーション方法、働き方などとのミスマッチが起こりやすくて苦しむことになる。

テレビゲームのRPG(ロールプレイングゲーム)をやったことがある人なら、ステータスのポイント振り分けがものすごい極端なキャラクターを想像してもらえればイメージしやすいかもしれない。勇者ではなく魔法使いとかバーサーカーとか。
 
 
ここで重要なのは、能力という意味では生涯を通して人間はそれぞれに発達していくものの、ベースとなるその人の先天的な個性ー発達障害の文脈では「特性」と呼ぶことが多い、の傾向は、あまり変わらないということである。

つまり、発達障害はひと昔まえに言われていたような「親のしつけの問題」では決してない。

それよりも、その子どもが持っているありのままの特性を理解し、その子が学びやすい教材や学習方法、その子が理解しやすく楽しめる方法での対人コミュニケーション方法などを早期支援を通して見出していくことが重要だ(その意味で、しつけの問題ではないにしても、保護者に対する発達障害に関する正しい情報提供や支援は必要になる)。

もうひとつ重要なことは、特性の凸凹が大きかったとしても、具体的な「障害」ー困難と言い換えても良い、が生じるかどうかは、その人が生きる環境との相互作用の中で決まってくるということだ。

発達障害的な特性をその人が持っていたとしても、環境の側を変えたり、自分の居場所や関わり方を変えていくなかで、「障害」は回避・解消し得るわけである。

ブロガーのシロクマさんが「『よく発達した発達障害』の話」という記事でも語っていたが、そういった環境調整がうまくいっていた人は、発達障害的な特性を持っていても、必ずしも診断が必要ではなかったり、困難や障害をあまり感じていなかったりする。

つまり、一口に「発達障害」といっても十把一絡げに語ることはできず、その人自身の特性と、その人が生きる環境との相互作用のなかで、個別に分析し、必要な支援をしていくべきことなのだが、その個別性ゆえ、「ここからここまでが発達障害」という線引きはほとんど不可能だ。そのことが、働く発達凸凹なオトナたちを悩ませているのだと思う。

社会全体としては「発達障害」という言葉や概念の認知自体は格段に広まった。
でもまだ、あらゆる場面であらゆる人に対して個別具体な対応ができるほど、社会は成熟しきっていない。

社会の進化がまだ過渡期にあるということと、自分自身のキャリア上のつまづき、行き詰まりが重なって、「私は発達障害なのか?」問題が顕在化するのだろう。

「顕在化」と言ったのは、その人はそれまで「私は発達障害なのか?」などとは意識せずとも生きてこられていたのに、プレイヤーから管理職への昇進タイミングや、それまでたまたま自分に合っていた部署や職場からの異動タイミングで、急につまづきが発生する、というケースが少なくないからだ。

クライアントの懐に潜り込むのがめっちゃうまくて営業で大型受注するとか、データ分析だけはめちゃくちゃ得意で良い示唆を出せるとか、ものすごくピーキーなスペックを持った発達凸凹さんは、職場や役割によっては活躍できたりする。

その一方で、事務処理タスク漏れまくりだったり、相手に合わせた社交辞令的コミュニケーションがほとんどできなかったりとかするんだけど、学生時代とかファーストキャリアでは、周囲や上司に恵まれてどうにかなっていた、ということも少なくない。それが昇進・異動を気に周囲の期待値や「常識」が変わってつまづくのである。

それまで意識や獲得の機会もなかったのに、急にビジネススキルの「基礎」がなってない、みたいに言われてしまうとなかなかしんどいものがある。

大人が発達障害という「概念」と出会い悩み出すのは、そのようなタイミングであることが少なくない。
 
 

 
 
本質的には、多数派の側に合わせて多くがデザインされており、多様な人たちの個性が活かしきれていない社会の側にこそ課題があるのだということは強く言っておきたいが、とはいえ社会を変えるには時間がかかる。

現在進行形で悩んでいる「私って発達障害かも…」なオトナたちとしては、社会変革を望みつつも、どうにかこうにか自分でサバイブする術を見つけていくしかない。

僕自身もその一人ではあるし、自分が直接関われる範囲、自分の職場の部下・同僚とか、相談してくれた知人・友人に対してできることはするつもりでいるが、あいにく悩める人たち全員を救うような魔法のステッキは持ち合わせていない。

だけど、何はなくともこの2ステップ、という大きな方略と、具体例としての自分の特性や対策ぐらいは参考程度に紹介できる。

ステップ1. 自分の特性をなるべく具体的に把握すること
まず何よりも自分自身のことを知ることがスタート。案外、自分は自分のことを曖昧にしか理解していないものだ。特に「発達障害かも…」モードになって悩んでいるときは、発達障害というワードやADHD等の診断名に引きずられて、自分自身の具体的な特性として、何がどの診断基準や症状事例と一致しているのかそうでないのか、冷静に整理できていない場合が多い。

詳細は以下の参考リンクに譲るが、自分の認知特性・機能を項目ごとに数値化し、検査者がフィードバックしてくれる「知能検査」・「心理検査」をクリニックで受けてみたり、発達障害当事者が集まって、自分の困りごとを共有し、その原因や自分自身のことを探求していく「当事者研究」の集まりに参加してみたりすると良いかもしれない。

(参考: 知能検査の一例「ウェクスラー式知能検査」)
(参考: 綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』)

ポイントは、「○○障害」にとらわれるのではなく、ひとつでも、具体的に、具体的に、「自分のこと」を明らかにしていくというプロセス。次に解決策を考えていくわけだけど、案外、「あ、私ってこうだったんだ」って分かるだけでも気持ちが楽になることもある。

たとえば僕の場合は、こんな特性がある

・注意の転導性が高い
⇒ひとつのことに集中していても、別の事柄にカットインされるとすぐ注意がそちらに奪われてしまう

・視覚刺激への反応が高い
⇒家とか居酒屋で人と話しているときにテレビがついていると思いっきりそちらの光に注意を奪われる

・聴覚刺激への選択的注意が弱い
⇒上の特性と合わさってテレビに引っ張られ、よく妻に「話聞いてなかったでしょ」と言われるw

・文字に起こして枠組みを設けて思考しないと気持ちが悪い
・図とか写真などのビジュアルでの感覚的な理解は苦手
⇒メールや話が長いし理屈っぽくなる

・空気を読みすぎてしまって空気が読めなくなる
・その場において求められている自分に合わせようとする
・「確固たる自分」を求めてはいるが、自己像は他者との関わりのなかで常に揺らぎ、変容していく
⇒過剰適応というやつです。だいたい夜に一人反省会する

他にも色々あるけどまぁこんな感じ(笑)

ステップ2. 自分の職場をサバイブできる環境に近づけていくこと

自分の特性を理解したら、日頃の生活・仕事で生まれる得意不得意や失敗が生じる理屈も、なんとなく仮説を立てられるようになる。そうすれば、失敗経験に至る前に環境を変えて予防したり、不得意な業務を誰かにお願いして得意な業務に集中したりと、対策を立てることができる。もちろん働く上ではなんでも100%思い通りにとはいかないけれど、それでも動かす余地はたくさんある。

・スケジュール管理や作業の仕方など、自分で変えられる部分は自分用にチューニングする
・周囲に特性は開示しないが、自分からの働きかけを工夫してみる
・周囲に開示し、理解も得たうえで「合理的配慮」が受けられるよう相談する
・そもそも職種や職場、雇用形態を変えてしまう

などなど、職場の理解度にもよるが…働きかけのレベルは色々ある。

オススメなのは、「自分のトリセツ」をつくること。発達障害かどうかではなくて、上記のような具体的な特性とその「取扱方法」を周囲に発信する。自分だけでなくて、発達障害特性のない人も巻き込んでフラットにやれるとなお良し。「まぁお互いさまだね」って気づきやすいから。

足の不自由な人にスロープが、目の不自由な人にメガネがあるように、発達の凸凹がある人だって、上手く周りの石をどければ歩きやすくなるってものです。

参考: 「【大人の発達障害】仕事での困りごと・就職方法・対処法まとめ」
参考: 「合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて」

僕の場合も、上記のように色んな凸凹があるわけだけれど、考えようによっては特性の偏りは強みにもなるし、強みを足場として苦手にも対処できるようになってきた。

ライターや編集者といった仕事は、言語性の高さを活かす上での天職だと思うし、
ビジュアル・デザイン面はからきし苦手だが、業務やコンテンツの目的を「言語化」できれば、デザイナーさん他、得意な人に具体的な依頼ができる。
最近は部下も増えて、プロジェクトマネジメント的な仕事も多くなってきた。同時処理や迅速な判断が必要になるので苦手分野とも言えるのだけれど、とにかく自分が学んだ視点や方法論を、言語やフレームに落とし込んでいくことで、少しずつ自分なりのやり方が見えてきた気がする。

発達障害のある人の中には、苦手を補って余りあるほど傑出したクリエイティビティを発揮して一芸に秀でたような人もいる。だけど、みんながみんなそうならなくたっていい。

地道な戦いだし、決して人生イージーモードではないと思うけれど、それでもきっと、誰だって自分なりのサバイバル戦略は見つけられるはずだ。僕はそう信じている。
 
 

 
 
「私ってADHDなのかもしれない…」
「発達障害の診断って、どこで受けられる?」

「ふーん、そっか。どうしてそう思った?」

冒頭の相談に、どうしてこんな淡々としたリアクションを取るかというと、
まず第一に、僕にとってそれは「どちらでもいい」ことだからだ。
あなたが発達障害であろうとなかろうと、今まで続いてきた僕とあなたの関係性が、それだけで変わるはずもない。

もう一つの理由は、診断名を白黒ハッキリつけることが、本人にとっての正解なのかどうか、究極、「分からない」からだ。

こうやって相談してきつつも、やっぱり実際に診断がついてみたら、「私」はこれからどうなるんだろう…?と、不安が大きくなる人だっている。
一方、医師に確定診断を受けたことで、「嬉しかった」「救われた」「自分が怠けてたんじゃないとわかってよかった」と、ポジティブな気持ちになれる人もいる。

「発達障害」というラベルをその人が自身のアイデンティティにどう取り込むか。
それは本人の気質や心境によっても変わってくるだろうし、周囲の人々や環境の寛容度(への期待値)の高低にも影響される。

相談者に対して、僕が何かをジャッジしたり誘導したりすることはできない。
できることは、自分にとっての「正解」を探すための、整理・内省のお手伝いぐらいだろう。

・知能検査・心理検査で特性を把握すること
・医師に発達障害の確定診断を受けること
・障害者手帳を取得すること
・配慮を受けやすい障害者雇用枠で求職・就職すること

これらは決してイコールではないし、全てのアクションを取る必要もない。

発達障害傾向の無い人でも、知能検査・心理検査は自分を知る手段として悪くないと思うし、発達障害の診断があるからといって、必ずしも手帳を取得したり障害者雇用で働くわけでもない。

診断とって楽になるのなら取っちゃってもいいと思うし、ラベルを付与されることにやっぱり迷いや抵抗があるなら無理に結論を急ぐ必要もない。

どちらでもいい。

僕の場合、医師の確定診断は特に受けていない。

WAISという知能検査は受けた。言語性がめっちゃ高くて、知覚統合とか数的処理が弱く、まぁ凸凹大きいよね、と笑える結果ではあった。

医師も人間なので、診断結果は人によって振れ幅がある。
過去の生育歴や検査結果を持って一生懸命困り感を訴えれば、診断をつけてくれる人もいるだろう。
「いやあなた、もう十分社会で適応できていますよ」と、診断をつけない人もいるだろう。

そのぐらいのグラデーションだと思うから、まぁなくても別にいいかなって感じ。

今よりもっと悩んでいた時期もあった。
こんだけこじらせて生きづらいのは、自分がやっぱり発達障害なんじゃないだろうか?
ただ、当時を振り返ると、自分のことがぼんやりとしかわかっていない状態で、悶々と足踏みしている感じであった。
その経験から言うと、まず何よりも、「自分自身の特性を把握すること」は必要だと思う。

そうすれば、次の足場が見えてくるから。
診断や手帳を取るかどうかという話に飛ぶ前にも、目の前の環境に対して、できることがたくさん見つかるから。

世間的、あるいは会社的に定番の「キャリアパス」に囚われなくていいから、ちょっとでも強みを活かしてパフォーマンス発揮できることを探す。
言うても社会人やっていく上では苦手なことはゼロにはならないから、苦手を把握して周囲の人にSOSを出す術を身につける
それから、職場内でも外でも、とにかく1人でも、相談できる「味方」を見つける。
そして、前々回の記事でも書いたが、「つかれたら、休め」
(発達凸凹かつ生真面目な人、二次障害で精神疾患なりやすいのよほんと。いのちだいじに)

「私は発達障害なの?そうじゃないの?」問題。

一見難問なのだけど、答えはどっちなのか?と抽象的な「問題」に振り回されるばかりなのはもったいない。

少なくとも、僕にとっては、あなたが自分をどちらに規程しようと「どうでもいい」。

ただただ、あなたがどうにかサバイブできる方法にたどり着けることを願う。
そして僕自身も、危うい自分の生をサバイブできることを願う。