無為と虚像

第31期(2017年2月-3月)

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カメラを立ち上げた時のモニターに一瞬残像の様に映る、ぼんやりとした画像を残す方法を知りたい。普段、写真については、なるべく端正な画面構成で撮ろうとする一方、無為の存在感にはかなわない、と実は思っている。
 
 
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目の前の対象よりその反射や投影、透過に、実体よりその影や背景、空白に、どうにも目耳が向いてしまう。
 
 
 
何が、そんな視点や価値観に影響しているのかと過去を振り返ると、通っていた画塾の講師や塾長から実習中に常々言われていた「無意識の形」の話が思い当たった。描写で描く対象を見つめ捉える事は当然大事だが、その対象の際から広がっている空白の形も、見えてるものと描いたものとが一致するのかを常々チェックをしなさいという、描写に於ける「戒め」のような言葉だった。(これと似た他の方法で、描いた紙面を鏡に写してデッサンが狂っていないかをチェックする等については、ご存知の方も多いはず。)

この「無意識の形」の声は、大学に進んで以降は、しばらく鳴りを潜めていたようだけど、おそらく、生業を通して紙面レイアウトの文字詰めや画像のトリミングなどに没頭するようになってから、再び頭の中で知らず知らずの内に響き始めたようだ。そして、これらは、僕の写真や音作りにおのずと働きかけてくる様になり、幾つかのルーティンを生んだ。
 
 
 
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ある冬場の日中、アスファルトの路面にカーブミラーの反射光が「ぽかん」と浮かんでいる様子がクラゲの様に見えた。以降、窓ガラスや鏡状のもの等に反射した太陽光が路上に作る、うねった様な光の形が、やたらと目につく様になってしまい、それらを「今日のクラゲ」と名付け、狩りをする様な気分で日々撮り続けている。
 
 
 
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水路に映る街並の姿の中に「あちら側の並行世界」を見いだした様な気がして(随分前に読んだ、H・G・ウェルズの『水晶の卵』という短編が、似た様な世界観の話だった記憶がある。)、水面ばかりを撮り続ける内、水面の映り込みを注視していくと、客観の視点から顕微鏡を覗き見ている様な、主観や内向の視点への行き来が意識されたり、映り込む対象が抽象化されて行く事で、画像というより、音いじりをしている時に波形を見ている様な心持ちでいる自分に気付いたりもした。こちらは「みなもの世界」と名付け、何かしら「響き」を焼き付けている様な想いで撮り続けている。
 
 
 
 
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セルフレコーディングに長けた知人の音楽家と機材の話になった時に、ハイグレードな録音マイクのポテンシャルについて、録音した主たるサウンドの音質はもちろん、何も鳴っていない時の、空気の粒子だけが記録されているような音すらも美しいし、実際、「無音」を聴いていて気持ちが良い。多分、美しい音声よりも美しい「静寂」を捉える事の方が技術的にも難しいのかも知れない。機材の何に金を出すのかというと、そういう所なんだ、という旨の話を聞いて、僕自身も音源を組んでいる時には、主体のサウンドよりも、空間の雰囲気を醸す様な、背景や足元に忍ばせるサウンドの作り込みに時間も手間もかけてしまう事が多いので、なるほどな、と思った。
 
 
 
ある実像に対する背景や付随する副次の様々は必ず付いて回るものでもありながら、それらはたとえ見る者の目には入っていても見落とされがちな存在なのだと思う。でも、現在の僕にとっては、むしろ実像が虚像の脱け殻なのかも知れない、とさえ思える事もあり、そういったものの在り方に惹かれ続けている。様々に纏われているはずの逆説の様な存在達に目耳を向けていたい。

 
 
  
そして、これは余談。
長年、自分のアイコンとして使い続けている影法師の画像も、使い始めた時分には特に意識していなかったけれど、ある時「陽」という名前の逆説としての「影法師」なのだと気付いて、我が事ながら後追いで合点が行ったのだった。